千の夢 サンプル
人工の標などひとつもない砂の道を、集落から集落へ渡る旅は、その目的が何であれ、とても苛酷な道行きだ。
その道を今、生まれ育った町へと向かうギム・ハーシーは鈴をぐるりと取りつけた大きな木の輪を左腕に抱え、右肩には土産ものを詰めこんで膨れた麻袋を下げていた。
ゆらゆらと揺れる蒸気の向こうに町を囲む外壁が見えるが、歩き始めて早一時間、そろそろ体力の限界だ。砂が盛り上がって小さな影ができている窪地を遠くに見つけると、ハーシーは右肩の荷物を砂の上に置き、窪地と前方の町の距離を測り、しゃがみこんで現在地と太陽の角度を測ってから、窪地に向かって歩き出した。
窪地には、先客があった。
「やあ、こんにちは。お邪魔するよ」
挨拶をしてから、ハーシーは窪地に腰をすえた。
その先客は虎に似た、人の身長ほどもあるしなやかな胴体を白銀の体毛で覆われた獣で、この地方ではドゥーチェと呼ばれている。頭を上げてハーシーを威嚇したものの、窪地のすみにうずくまったまま動かないところを見ると、子連れの雌なのだろう。ドゥーチェの気性は獰猛だが、知能が高く人語を解するので、人間の側が必要外に怯えさえしなければ、理由もなく襲われるようなことはない。
ハーシーは平均より少し背が高く、平均の倍ほど体重があるので、そうしてドゥーチェの成獣と並ぶと、大きさはいい勝負だ。旅が好きで、根なし草よろしく一年の半分以上をあてのない旅に費やすハーシーに、町の子供たちが旅の秘訣を聞いてくることがよくある。そんな時、決まってハーシーはこう答えることにしていた。
「なに、おれは腹にこうして栄養を溜めている。瘤のあるやつとおんなじで、長旅にはいい連れなのさ」
その答えを聞いた子供たちがハーシーを見習ってよく食べ、よく眠ったかというと、そういうわけではない。そういうわけではないが、ハーシーは子供たちの人気者だ。なにしろ大の大人も知らない遠くの町を訪れ、夢のような土産話を運んでくれる。ハーシーが持ち帰る土産ものはどれもこれも珍しいものばかりで、東の町で大量に買った蛙の干物、その少し北の小さな牧場で作られた干し肉、南の湿地に育った草を練りこんだ焼き菓子など、いろいろなものをハーシーは持って帰ったが、そのどれもが何日も経たぬうちになくなった。
今回の土産ものは、乾期の最初の一月にしか収穫できないという珍しい茶葉、湿地になる赤く熟れた実の塩漬け、風の気まぐれで時折出現する塩水湖の水から作られた塩の固まり、青い星型の飴などだ。それに、今回は上質の草が手に入ったから、さぞ重宝されるだろう。特に星見の仕事を息子に継がせてさっさと現役を降りたルウラ・ジオンの父親など、仕事を離れてから八年も経つというのにいまだに不眠に悩まされているというから喜ぶに違いない。窪地に入ってからは、蒸発せずに肌に残るようになった汗をふきふき、ハーシーは麻袋から草を一葉、取り出した。
「半分、どうだい」
嗅覚の敏感なドゥーチェが緩慢な動作で頭を上げたのを横目で見て、ハーシーは草をふたつに裂く。ドゥーチェは前足を支えに身を起こし、ハーシーの手から草を食んだ。その体の下には数匹の子供がいて、草をねだるように首を伸ばしている。
噛んで柔らかくした草をドゥーチェが口移しで子供らに分け与える隣で、ハーシーは草を口に放りこむ。草の酸味が口いっぱいに広がった。この酸味は暑さと疲れを吹き飛ばす。唾液と混じった草汁を飲み、噛んだ草を口から出すと、ハーシーはそれを砂でくるんで小さな袋に入れた。町に着くのは明日になるだろうから、今夜はこれを燃やして時を過ごそう。
時盤を見ると、窪地に入ってからすでに半時間が過ぎていた。ひとつの乾期とひとつの雨期からなる一年のうちには十六の月の満ち欠けがあり、それにならって一日は十六時間に分けられている。もう半時間も休んだら移動を開始して、次の窪地を探そう。
草の酸味に心地よい酔いを感じながら、ハーシーは目を閉じ、肉に埋もれた首をひねった。隣でドゥーチェが低くうなる。先客はどうやら、そろそろ窪地を離れるようだ。
「東の道は、風が強いよ。南回りに行けば新しい窪地がふたつある。北へ行くなら、ひとつめの窪地に淡水が出たから立ち寄るといい」
首肯するようにドゥーチェは喉の奥でうなり、頭を軽く振った。小さな子供たちが立ち上がった後で、一体だけ動かない子供をのぞきこみ、その体を咥えてハーシーを見る。目が合うと、ドゥーチェは半時間ほど前に息絶えたその子供をハーシーに向かって投げた。その性質の獰猛さ故にドゥーチェを狩ろうとする者は滅多といないが、ドゥーチェの、それも子供の肉は特に美味で重宝される。ハーシーは歓喜の声を上げて肉を受け取った。
もう一度、低いうなり声を上げると、ドゥーチェは子供らを引き連れて歩き出した。太陽の位置を見上げ、北へ進路をとることを決めたようだ。その後ろ姿を草を食みながらハーシーは見送った。そうするうちに、ゆらゆらと揺れる空気の幕の向こうに、大勢の人が行き来するのが見えた気がして、ハーシーは瞬いた。
あまりに人数が多いので、商隊かと最初は思ったが、それにしては荷車が見当たらないし、そもそも、こんな砂漠の辺境を大規模な商隊が訪れるなど珍しい。太陽の力が徐々に衰えていくこれからの時期を前に、太陽の暴走を静め、周期を偽らぬ月の偉大さを称える夏至祭を見に訪れる旅人にしては数が多い。少しずつ砂の丘を進みゆく隊列を組んだ人々の姿は、旅人を惑わせる太陽のひとつの技、蜃気楼にしては、いささか芸が細かすぎる……。
幻か。
草を食みながら、ハーシーは思った。そのすぐ後に太陽を見上げ、湿地で聞いた話を思い出した。天空を行くふたつの月がぴたりと重なった半月前の晩からこちら、夜になると大勢の人が砂漠を行くのがそこかしこの町から見られるという噂だ。そう言えばハーシーが幼い頃にも、夜毎に現れて砂漠を渡る旅の楽団の噂が流れたことがあった。楽団は時に太陽の下にも姿を見せ、これと思う奏者を見つけてはさらっていったという。ハーシーには十四歳年上の姉がいたが、彼女が夜の砂漠に出かけたまま行方知れずになったのはちょうどその頃だ。姉は固い木をくり抜いて作った笛を得意としていたので、夜の砂漠に行けば彼女の笛の音が聞こえるよと皆が言ったが、ハーシーはその音を聞きには出かけなかった。それを聞いたが最後、自分も楽団について砂漠の夜に溶けてしまいそうな予感があったからだ。
ぺっ、と草の残りを吐き出すと、それを中心に砂の玉を作って、ハーシーは窪地を出発する準備を始めた。乾期半ばのこの時期、夜は短く、途中の休憩時間を考えればこれ以上この窪地でのんびりとしているわけにはいかない。なにせ明日は従弟のルウラ・ジオンの誕生日だ。湿地に予定よりも長く滞在した分、旅路を急ぐ必要があったから、太陽が高いうちから休み休み窪地を渡り歩いているのである。あの少年の誕生日までには帰るという約束を反故にしたくはなかったので、いつになく急ぎ足で、ハーシーは砂漠の旅を再会した。
…以上、冒頭より
ひとしきり騒いだ後、不意に、子供たちのひとりがシィーッと鋭く長い息を吐いた。子供たちの騒ぐ声の他には何の音もなかったはずの夜の砂漠に、いつからか子供の声とは違う音が響き始めていた。
「鈴の音だ」
誰かのささやく声を聞くまでもなく、子供たちは息をひそめ、神経を聴覚に集中している。そうして間もなくサウは砂漠の夜に鈴の音を見つけ、瞼を伏せて耳をすました。
しゃん、しゃん、しゃん。涼やかな鈴の音は、ゆっくりとこちらに近づいてくるようにも、遠ざかっていくようにも聞こえる。音の方向を向いてから瞼を上げても視界に影はまだ見当たらず、もう一度目を閉じてサウは耳の後ろに両手を押し当てる。
「笛の音」
誰かが、またつぶやいた。
「あっちだ」
ほどなくして、瞼を開いた子供たちのざわめきと空気の動きにつられ、サウは目を開いた。ふたつの月と星々の他には灯りのない夜の暗さに慣れた子供たちの目は、砂漠の東方をじっと見つめている。暗闇の中に目を凝らすと、やがて薄明かりを反射する砂の上を躍るように進む人影が見えてきた。
鈴の音、高い笛の音、低い笛の音。皮を張った太鼓の音、人のかけ声、鈴の音……。
そうした音が、楽団の影がはっきりと届くようになるにつれ、子供たちはしんと静まって音を影を耳と目で追った。何せこの子供たちはここ数日、毎日のように夜の砂漠へ出ているので、夜の楽団を初めて目にする者はひとりもいなかったが、子供たちは一様に触れることのかなわない神秘を遠くから眺めるような目で影を見つめていた。そのうちに、ひとりがぽつりと口を開く。
「なんだか、昨日よりも町に近づいたみたいだね」
それに応えるように、誰かが続けた。
「あの星見の塔を標に、町へ向かっているみたいだ……」
時に町の重要な政が決定される場でもある星見の塔へは、この場にいる子供たちは誰ひとりとして登ったことがない。サウもその例外ではなかった。
「あたしはおまえの友達なんだから、いいじゃないか」
サウはそう言って星見の塔に登らせてくれとルウラにせがんだこともあったが、ルウラは困ったような顔をするばかりだった。こっそりと忍びこもうと思ったことがないわけではないが、実のところ塔の入り口がどこであるのかがサウには分からず、塔を訪れるルウラの後をつけても、気がつくとルウラの姿はどこへやら消えている。
星見のひとりと幼なじみであるサウでさえそうなのだから、子供たちがひとりも星見の塔の内部を知らないのはおかしな話ではなかった。
標か。ルウラは今夜も、明日の晩も星見の塔に登ると言った。夜の楽団がもし、星見の塔を目指して砂漠を歩いているというのなら、ルウラはいつか彼らに会うのだろうか。一度もその影や音楽に触れたことのない彼らに出会ったら、ルウラは何を思うだろう。ここにいる子供たちとは違って、税率を決めたり、農作物の流通を調整したり、水や塩を分配したり――その決定に有無を言わせることなく、町政を左右する力を持った星見の少年には、こんなことは何でもないことなのだろうか、皆で夜の砂漠に出ることよりも勉学を優先する必要があるほどに?
夜の楽団の影と音楽に歓喜する子供たちのそばで、果汁の滴るスツーの実の残りをかじりながら、脈絡のないことをサウは考えていた。そのうちに、夏至祭が始まる前にルウラをつかまえて、もう一度砂漠に誘おう、と思った。
…以上、P17〜18より
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