楽園都市 上 サンプル

 人気のない路地は全体に青みを帯び、建物と建物の隙間からは、時折冷たい風が吹く。
 中でも背後からやってくる一際大きな風は、路地にたたずむ少女の細い体をひたすら前に押しやらんとしているようだった。風に対する抵抗がもっとも弱いものは髪だ。少女の長い黒髪は、風に乗ってほとんど水平に流れている。
 身動きひとつしない少女をあおるように、右側から小さな風が吹いた。風は哀切な音色を奏で、耳に運ぶ。その姿を確かめようとした少女の視線が追いつく前に、風は少女の左側を回って消えた。
 己が夢の中にあることを了解し、意思をもって行動することのできる夢には、明晰夢という呼び名が与えられている。そういう夢をみることは特定の訓練を受けた者にとっては造作のないことだったが、中には望みもしない明晰夢もあった。何故ならどれほど訓練を積んだところで、心を完全に操作することなどできはしない。夢が時に苦痛を伴うのはそのせいだ。
 夢の中にあってさえ、少女はそんな理論を展開させることができた。思考を打ち切ろうとするように瞼を伏せ、首を上げて、過ぎていく風に肌をさらけ出す。
 また、この夢だ。
 少女は首を戻し、唇を結んだ。胸の奥のつぶやきは声にはならず、夢の大気を震わせるには至らない。
 目の前には路地があった。大地はタイルに覆われ、タイルは無慈悲の象徴に一役買っている。色は青と灰の中間、形はいびつな正方形。無作為に配置されたようでありながら、その合間を埋める灰色の土のおかげでおもしろみに欠けた外観に落ち着いてしまっている。
 路地を抜けたところには、つい先ほど通り抜けたばかりの公園があるはずだった。公園以南の路地は、人気のなくなる夜間は危険だから出入りを避けた方がいい、と忠告されていた場所だ。それが従うべき忠告だったと承知しているのに、わたしはなお同じ夢を繰り返すのか。
 夢の中の街は、都市アルダンと呼ばれていた。人口は約八十万、これまでに少女が訪れたことのあるどの都市よりも多い。
 少女はゆっくりと視線を動かし、八十万の人口を支えているはずのタイルを足もとから向こうへとたどった。色素の薄い眼球を守るレンズはあいかわらずいい働きをしてくれる。
ほどなく、タイルをたどった視界に名も知れぬ男の足先が映って、少女はぱちりと瞬いた。公園に続く道を塞いだ男の姿に嫌悪感が込み上げる。逆光になっているわけでもあるまいに、そこにあるのはぼんやりとした輪郭だけで、男の姿をはっきりと見てとることはできなかった。
「あんた、その年で後ろ暗いものを抱えてでもいるのかい。何もひとりでこんなところへ来なくたって」
 揶揄する男の顔を、そのせりふが終わる前に少女はきっとにらみつけた、はずだった。だが実際には、男の顔のあたりに視線をあげたとたん、ぐらりと視界が揺れる。焦点が定まらず、足もとがふらついた。だめだ、バランスがとれない。
「痛ッ」
 尻餅をついたのとほとんど動じに、声が喉から滑り出た。とっさに体の背後に伸ばした手に力を入れ、タイルを踏みしめる足の存在を強く意識する。立たなくちゃ。
「おっと」
 上から迫る、壁に行き当たった。
「ちなみに何歳?」
 壁が喋った。大柄な男の形をしている。幅は少女の倍ほどもあった。
「化粧してないね。カーワーイーイー」
 上から伸びて手首をつかもうとした手を振り払い、少女は男の形をした壁の下をすり抜けた。そのままタイルを蹴り、這うような体勢で路地の奥へと逃れる。踏み込んだことのない路地への侵入さえ、この場にとどまることに比べればましなような気がしていた。
「おや、追いかけっこ? そっちは危ないぞぅ」
 壁は悠長に向き直り、はやしたてる。その声を振り切るより早く、真横の壁から足もとに枝が飛び出し、右足が引っかかった。勢いよくその場に突っ伏しそうになりながら、必死で体をひねる。視界が回る。眼前に大きな手。声が出ない。
 路地に何人の男がいるのかさえ見当がつかなかった。休むことなく壁が男を産み落とすように見える。
そのうちのひとりが、少女の両手首をつかんで引っ張った。小柄な少女の体は簡単に引き起こされ、放られた勢いに乗って回転し、背後に控えた壁にぶつかる。体が弾んだ。
 跳ね返った細い腰を両脇から伸びた男の腕がつかみ、そのまま真上に持ち上げる。重力に逆らった動きに不快感が増した。次いで体は、勢いよく下へ。無重力感に襲われる。
路上に向かう少女の体についていけなかった長い髪が目の前に飛び出した。白い髪! 路地の上の空が回る。

 路地に叩きつけられた、と思った瞬間、ベッドの上で体が弾んだ。
 反射的に鋭く吸い込んだ息を止める。自失はひどく長く感じられたが、再び時間が流れ出すまでにはほんの一秒もかかっていないはずだった。ベッドの上で荒く短い呼吸を繰り返す。焦点が合った。視界の先には見慣れた天井がある。
 しだいに呼吸する速度を緩めて、少女は瞼を伏せた。薄暗い室内の光源は、天井の二ヶ所に配した小さな電灯だ。瞼の裏は生命の色に彩られて赤黒い。夢から覚めたことに、安堵のため息が漏れた。
 部屋の各所に設置されたセンサーのひとつが、少女の覚醒を感知して空調機に指示を送る。空調機は指示に従い、吐き出す空気に少しずつ柑橘系の香りを織り込んだ。少女は体の力を抜いて、部屋の中を循環するさわやかな空気を味わうことにする。
 ややあって、少女はゆっくりと瞼を開けた。瞼の下から現れた瞳は黒い。ぱち、ぱちとゆっくり瞬いた後、視線を横へ動かすと、ベッドの上には長い黒髪が広がっていた。

…以上、冒頭より

 心地のよい音を立て、弾けた火の粉と灰のかけらが中空を舞っている。火の粉は短い寿命を終えて大気に四散し、灰のかけらは風にあおられて舞う雪粒のようにひらひらと落ち、白い大地に紛れて見えなくなった。
 地球標準暦一一八年一月の終わり、寒風は容赦なく人々を襲い、地域一帯の凍死者数はじきに例年の数字を追い抜こうとしている。その一方で今年は降雪量が少なく、例年より頻繁に行われる物資の輸送に、集落の人々は顔をほころばせていた。
「熱ィ」
 地球政府の庇護を受けない人々が肩を寄せ合って暮らす小さな集落の一角に、焚き火から飛んで頬に触った火の粉を振り払い、しかめ面を作る少年がいる。
「贅沢言うな、馬鹿野郎」
 焚き火を挟んで少年と向かい合う位置に座り込んだ青年が、顎をしゃくって言った。
 少年は無言で首を振り、青年からふいっと顔を背ける。視界の先に展開する大地は、ところどころに本来の色をのぞかせている他は、ほぼ全面にうっすらと化粧をほどこされていた。
 ちらりと視線を戻すと、青年は少年のことなどお構いなしに焚き火をつついている。ほっ、よっ、とかけ声を出して細い鉄棒を動かしているそのさまは、弄ぶか弄ばれるかの主導権を焚き火と奪い合っているかのようだ。幼い頃なら自分もやってみたくて手を伸ばしたかもしれない光景だが、今ではなんの興味もそそられない。それどころか状況によっては、焚き火とたわむれるその姿は「いい年こいて」という文句と苛立ちを呼びかねない。
「で……ひとつ聞きたいんだけどさァ、お兄さん?」
 ややあって少年は、体ごと焚き火を向き直った。仏頂面だ。青年の視線が自分の顔をちらりと見たことを確認してから、少年は問いを発する。
「あのさ。なんで政府のトップシークレットが筒抜けなわけ。しかもなんでおれから情報料とろうとするわけ」
「まァそう怖い顔をするな」
 質問に応える前に、青年は注文をつけた。
「生まれつきだよ。悪かったな」
「またまたァ。三年前は、もっとかわ──」
 視線を上げた先の少年が唇の端だけを吊り上げて笑み、右手にはいつの間にか拳大の石を持っているのに気づいて青年は口をつぐんだ。
「テリーか?」
 少年は厚い革の手袋をはめた両手に石を一度だけ行き来させた後、上段に振りかぶって遠くへ放り投げる。青年は応えなかった。焚き火に視線を戻し、立てた左膝の上に肘を乗せる。
「ま……どうだっていいけどね。おれは」
 得られる見込みのない返答に手を伸ばすのはやめて、少年は視線を足もとに落とした。焚き火は少年の左側で、これまでと調子を変えることなく弾けている。
「政府はおまえが死んだと思ってるぜ。馬鹿な考えは捨てろ」
 焚き火の足もとをつつきながら、顔を上げもせず青年は言った。先ほどとは打って変わった淡々とした口調で、表情は消えている。
 吸い込んだ息を胸の奥にため、少年は青年を一瞥すると、また足もとに視線を戻した。ぱち、ぱちとゆっくり瞬いた後、唇を笑みに歪める。
「おれは何か馬鹿なことを言ったかい?──情報の出所はテリーかって聞いただけだろ」
 言いながら細めた目をゆっくりと向けたが、青年は表情を消したまま瞬いただけだった。ふん、と短く息を吐き出し、少年は足もとの硬い土を雪ごと蹴りつける。
 青年は鉄棒を握る手に力を入れ、炎の届かない下の方に隠れている木炭を移動させた。その後で唇をほとんど動かさず、低い声を発する。
「生きて帰ってこられただけラッキーなんだ。……馬鹿な考えは捨てろ」
「あん時ゃ計画をつぶせなくて残念だったな」
 青年の声の調子に動じたようすもなく、少年は軽く眉を上げて言った。木炭がガラ、と音を立てて移動し、青年は視線だけを上げて少年を見やる。
「おれらが仕組んだわけじゃねぇ。つーより、誰が賛同するって言うんだ、あんなもん。アホらしい」
 無言の少年から焚き火へと視線を戻し、鉄棒を振って青年は灰を舞い上げさせた。少年は足の爪先で大地を蹴りつけ、雪と土を掘っては固める動作を繰り返している。
「あのな、コウ。おまえ、なんでおれたちがおまえを拾ったか考えてみたことがあるか」
 回答を期待はせず、ため息を交えて青年は口を開いた。少年の黒灰色の瞳がちらりとこちらに向いたのを確認した後、空いている左手でがりがりと頭をかき、そのまま沈黙を守る。
 しばらくして、待っていても続きを聞くことはできなさそうだと判断すると、むくれた表情で少年は尋ねた。
「……なんでだよ」
「おまえがガキだったからさ。生活力のない」
 はん、と息を吐き、少年は再び土を蹴りつける。青年は唇を舐めて湿らせると、のんびりと首筋を伸ばしながら続けた。
「政府の連中がおれたちをなんて呼んでるのかは知ってるさ。だがな、放っときゃいいんだ、あんなもん」
 青年は鉄棒を左手に持ち替え、右手で拳を作って伸ばした筋のあたりを叩く。
「連中がおれたちの生活を脅かすなら、そりゃ反発はするだろうよ。だが、もう関係ないんだ、おれたちは──おれたちと連中は。ただ同じ地球の上に生きている同じ人間同士ってだけで、それ以上はなんのかかわりもない」
 現に食糧だっておれらは自給自足だぜ、と青年は焚き火に向けた目を細める。
「テリーみたいな奴が必要なのは、ただ情報のためさ。それさえありゃ、治せる病気もあるからな」
「治せない病気の方がはるかに多いだろ……」
 しばらくの間黙して青年のせりふを聞いていた少年は、ぼそりとつぶやくように言った。
「そうか? まァでも、もっと昔に比べりゃマシなんじゃねェの? 便所もあるし」
「は?」
 つぶやきをさらりと否定した青年に、少年はいぶかるような視線を向ける。青年はちらりと視線を上げ、にやりと笑った。
「初期のペストは、それひとつで人口を三分の一だか四分の一だか減らしたって言うぜ。出始めのエイズは、ほとんどの赤んボを二歳まで生かさなかったし」
 胡散臭いものを見るような目をしている少年に向け、にやにやと笑いながら青年は続ける。
「受胎率の低下がなんだっつーんだよ。作りゃいいの、ガキなんて」
 焚き火の中で、木炭がガラガラと音を立てた。
 視線と表情を動かすまでに、少年は数秒の間を必要としたようだ。互いの目の間にある傾斜からすっと顔を外すと、はっ、と息を吐いて少年は両手を広げてみせた。
「あっそ。今度の女とはうまくいってんのかい、そりゃ初耳だよ」
「黙れ、このクソガキ」
 手近にあった石をつかみ、青年は焚き火の向こうに投げつける。少年はそ知らぬ顔でくるりと体の向きを変え、肩を回した。
 足の上に肘を置き、上に向けた左手の中に顔の下半分を包んで、青年は苦虫を噛みつぶしたような顔をする。少年は振り返りもせず、しばらくすると焚き火の側に青年を置き去りにしてどこへやら歩き出した。その後ろ姿に向かって舌を突き出し、青年は両腕を振り上げて薄曇りの空を仰ぐ。
 見上げた空は、ほとんどの面積を白い雲に塗りつぶされていた。この時期にしては雲の位置は高く、雪雲ではない。雲の幕を透かし肉眼で太陽の位置を確認するのは、そう簡単ではなさそうだった。

…以上、第二章冒頭より

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