鏡の向こう サンプル

 やけに重く響く音を夢の中に聞いた気がして目を開けると、部屋は暗闇の中にあった。何度か瞬き、眠い目をこすり、壁にかかっているはずの時計を探す。
 方向感覚は、覚醒にやや遅れて体に戻ってきた。闇空に浮かんだ満月のように、円盤型の時計が暗闇に浮かび上がる。
 深夜……午前一時四十分。
 上等とは言いがたい小型のベッドの上でもぞもぞと動くと、少年はすぐ隣のベッドに眠っているはずの妹の様子をうかがった。妹の明るい金髪は、暗闇の中ではまったく輝きを失って見える。
 そのまましばらく様子を眺めていたが、妹の後頭部は動かないように見えた。物音が夢の中だけのものだったのか、それとも現実に空気を揺らしたものだったのか、いずれにせよ妹の安眠を妨げるものではなかったことに、少年は安堵の吐息を漏らす。
 それでは寝直そうかと体を横たえ、シーツをかぶり直した直後、階下から人の話し声らしい音が聞こえてきた。家の者、それに二階の子どもたちに気をつかっているのだろう、声は低く抑えられ、その内容を聞きとることはできない。
 だが、声の主が誰であるのかということ程度なら、容易に想像することができた。父だ。子どもには話しづらい諸々の事情とやらで近くの廃屋の地下を生活の場にしている彼は、正体を隠して時折、この家に出入りをしている。
 ……朝までいてくれたなら、キャロルが喜ぶのにな。
 聴覚に意識を集中して階下の様子をうかがううちに眠くなり、少しずつ現実から離れていく意識の奥底で、少年はぼんやりとそんなことを考えていた。

 左耳の裏に当たる振動に気づいて目を開くと、時刻は六時を回ったところだった。振動に即応して伸びた手で左耳を包むようにしながら、目覚まし時計代わりに使っている装置の動きを止め、耳から外して枕もとに置く。
 やばい。寝過ごしたかな。
 声には出さずつぶやくと、少年は音を殺してベッドを降りた。いつもより振動に気づくのが遅かったようで、耳の裏に奇妙な感覚が残っている。装置には、まだ改良の余地がありそうだ。
 のぞき込むようにして妹の寝顔を確認した後、少年は慎重に部屋の扉を開け、隙間を抜けるようにするりと部屋の外に出た。階下の様子をうかがいながら、足早に、だがなるべく音を立てないように階段を下りる。
 動くものの気配がないことに安心しながら、少年はキッチンに滑り込んだ。流し台に置かれた食器を手早く洗い、手を拭きながら背後を振り返る。大丈夫──まだ、誰も起きてはこない。
 そのまま朝食の準備にかかろうとしたところで、少年はふと、並べるカップの数を考えた。昨夜確かに、父がこの家を訪れる音を聞いた。だが、子どもたちに声をかけることもなく彼は帰っていったのだろう。この家に、父が泊まることのできる部屋はない。
 振り向いた先のテーブルに、いつだったか、突っ伏してうたた寝していた父の後ろ姿を思い出していた。あの日は確か、この家の娘の容体が朝まで落ち着かなかったから、父も帰るに帰れなかったのだ。己の姿を目撃されることに慎重な父は、その日一日をこの家の中で過ごし、夜の訪れを待って帰っていった。その理由を考えれば表立って喜ぶわけにはいかないのだが、それでもうれしさをこらえきれずにいた妹の顔ときたら……。
 その日のことをぼんやりと回想していた少年は、コト、という小さな音に弾かれるようにして顔を上げた。いつの間にそこまで来ていたのか、階段の中ほどに小柄な妹の姿があった。
「コウ、ずるい。起こしてって言ったのに」
 おはようの挨拶もなく、ふてくされた表情でつぶやきながら妹は階段を下りてくる。コウが誰よりも早く起きて家事をしているのはいつものことだったが、今朝の妹はことさらに機嫌が悪いようだった。
「おはよう、キャロル。……目覚ましが壊れて、いつもより早く起きちゃったんだよ。後で調整し直さないと」
「同じの」
 兄の言い訳を認める気があるのかどうか、そのすぐ隣に立つと、キャロルはふくれたままでつぶやいた。
「同じの、作ってって言ったのに。そしたらわたし、もっといい子になれるのに」
 視線を落とした妹の横顔に向かって、コウはいくつもの言い訳を考える。思うように材料がそろわないんだ。適当に作った装置だから、作り方を忘れちゃった。作った当初はうまく動いてたけど、今は正常に動かないんだよ。あんなのなくたって、キャロルはちゃんと起きてくるじゃないか。いやいや……あんなの、そもそもおもちゃだから目覚ましになんてならないよ。
 頭に浮かんだことのうち、いったいどれが適切な言い訳かをすばらしいスピードで検討し始めたコウの視界の端に、不意に影が入り込んだ。

…以上、冒頭より

「まったく、あの子といいおまえといい……」
 ぼやく声に、テリーは相槌を打ちもしなかった。頬杖をつき、男は再びキーボードをたたき出したテリーの横顔を見て、もう一度ため息をつく。
「……しかたのない子だな。そんなもの、見ておもしろいとも思えんのに」
 指を休め、一呼吸を置いた後でテリーはリターンを入れた。
「知りたいんでしょうよ。あなたがやっていることを」
 男に視線を向けもせず、淡々とした声でテリーは言う。
 男はかりかりと頭をかいて、中空に視線をさまよわせ、ややあって常に壁際にまとめてある荷物の上に目を留めた。
「自慢できるようなものなら……とうに見せていたさ。……あれは頭のいい子だ」
 つぶやきに、テリーは口をつぐんだままだ。
 清廉潔白とは言いがたい経歴のために、あるいは過去に犯した罪のために、男は各地を転々とする生活を続けていた。覚悟していたこととは言え、妻や子どもたちの負担を考えると、暗澹とした気分にならずにはいられない。
「幸い……先代の頃とは違って、組織的に私を探そうとする意思は今の連中にはないようだからな。指揮系統が曖昧だから、昔に比べれば出し抜くのもたやすい……。それだけが、救いだよ」
 返事がないことなどお構いなしに、男は独白のようにつぶやいた。
「……白日のもとにさらしたいと、そう思わないわけじゃないさ……。だが、怖いんだ。世間の目より、あの子たちの気持ちがな……」
「たとえ……本心がどこにあろうとも」
 口を挟んだテリーの声は、普段よりいくらか低く抑えられているようだ。
「……そういうのは、口に出すもんじゃないです。あなたは、自慢の父親でいてやらなけりゃ──特に、ああいう敏感なガキの前ではね」
 助手の声に男は視線を上げ、苦い笑いを口もとに乗せた。
「敏感だと……思うかね?」
「思いますよ。でなきゃ、性懲りもなくハックしかけたりしやしません。都合のいいとこだけは図太いくせに」
 下唇を突き出すようにして、テリーは憮然と言い放つ。
 その答えに男は吹き出し、その後で悪いと思ったのか、持ち上げた手で口を押さえた。それでもどうやら、笑いはこらえきれなかったようだ。
「愛弟子は、そんなにも優秀かね? 私としても鼻が高いな」
「おれが十二の頃には、鼻垂れてそのへんのガキと転がり回って遊んでましたよ。ったく、かわいげのない」
 文句を言いながらも、テリーの顔もまた、笑っているように見えた。

…以上、P15〜16より

Copyright(C)2006 こんぐ