湖畔の子猫
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出会った時のことにせよその後のかかわりにせよ、後々レーテという名を与えたその少女に対するサウスの判断は、自分でも不思議に思うほどの気まぐれの連続だった。初めて出会った時、ともにいたのは父親だろうと判断していたが、そもそも、その判断ですら正しいものだったのかどうか。
──あのね、パパが迎えに来るのを待ってるの。
湖畔の玄関前で一年前に再開した時、少女はたどたどしい口調でそう言った。肌は垢と泥にまみれ、着ている服も靴もろくな状態ではなかったが、そんな外見に左右されない美しさが少女の瞳にはあったように思う。
──パパね、お薬がなくて、とっても苦しいの。でもお医者さんのお家はすごーく遠いから、パパが帰ってくるまでの間、ここで待っておいでって。
護衛の者たちはサウスの行動に口を出すような権利は与えられていなかったから、何の抵抗もなくサウスは幼子を湖畔へと招き入れることができた。その最初の一日目、自ら服を脱がせ、汚れた体と一緒に洗ってやったことは、後々になってもよく覚えていた。
少女のために、サウスはさっそく服を作らせた。中でも瞳の色に合わせた水色のドレスは少女に映え、無邪気に喜ぶ少女の姿は、サウスにはとてもまぶしいものだったように思う。
──パパ、帰ってくるの遅いね。
時折、少女はつぶやいた。それに対して、自分はいったいなんと答えていたか──記憶はおぼろげだが、そのたびごとに違う答えを返していたような気がする。
少女にレーテという名前を与えたのがいつ頃のことだったのかも、実のところサウスはよく覚えていなかった。その理由が名前の持つ意味故のことだとしたら、それはとてもロマンチックなことではないかと柄にもなく思う。
「忘れ川──遠く、ギリシアという国に残る神話に出てくる川の名前だよ。その間にひとつ子音を挟んで、「レーテ」。挟んだ子音は、君自身だよ。きれいな名前だろう?」
言われる内容が理解できなかったのか、小首を傾げる少女に対して、他にもサウスは様々なことを語り、教えた。
「きっと君は、誰よりも美しくて誰よりも幸福な貴婦人になるよ。……保証する……」
レーテは文盲だったが物覚えはよく、文字を覚えさせるのにたいした時間はかからなかった。サウスを父親代わりの保護者と認識していたのかどうか、言いつけに対しては実に素直に従う、そういった意味では手のかからない子どもでもあった。行き先がどこであれサウスの行く場所には同行したがったし、サウスのすることを見てなんでも同じようにやりたいと口にすることはあったが、たしなめればすぐに主張を引っ込める賢さを、誰に教わるともなく彼女は備えていた。
サウスは湖畔の中の余っていた部屋を、そして何不自由のない生活をレーテに与えた。気に障るようなことがあればいつ追い出してもかまわないと思っていたが、その言動のすべてを許すことができたのは、いったい何故だったのだろう。
ひとり遊びの好きな少女は、いつの頃からか、気まぐれに新しい遊びを考案してはサウスを誘うようになった。ある時は石並べ、ある時は毛糸玉転がし、ある時は湖畔の壁へのらくがき。手近にあった本のページをすべて破いて部屋中に散らかしたこともあったし、家の外に咲いた花を持ち込んでシーツを泥だらけにしたこともあった。何を期待して次々と新しい遊びを考案するのか、……いずれにしても飽きっぽいことだけは疑いようがなく、ひとしきり遊んだ後は床の隅にうずくまってうたた寝をしているか、転がって本を読んでいるかのどちらかだった。
そんなレーテの行動をたいして気にかけることもなく、必要に応じてサウスは部屋を片付け、気が向けばレーテの相手をしてやった。部屋を片付けるのはサウスの役割だと決めてでもいたのか、護衛の人間に掃除をされることだけは明らかに嫌がっているようだったので、いつしか彼らもレーテの気まぐれな遊びを無視するようになった。
レーテの過去や育った環境にサウスは興味を示さなかったが、時折、少女は思い出したように父親らしい男のことを話し、以前住んでいた家のことを話した。それから、いささか不健康な自分のことを。
言われてから考えてみれば、なるほど、レーテはよく熱を出したし、起き上がる気力がないとでも言うようにいつまでもシーツにくるまっていることがあった。そんなことが続いたあまり、父親のもとで働いていた医者数人を次々と呼びつけ、診察を命じたことがあったが、いずれの診断も曖昧だったように思う。
──この子は、サウス様。それほど長くは生きられませんよ。おそらくは、母親が薬物中毒だったのか……。
そういう判断をよこしたのは、いったい誰だったか。
記憶は判然とせず、だが、何もかもがそんなふうに我が身のそばを通り過ぎていったように思う。
情報源は護衛の者たちのいずれかだったのか、それともレーテを診察するために呼びつけた医師たちの誰かだったのか、湖畔に招き入れてほどなく、レーテの存在は父の知るところとなったようだった。
もっとも、父がサウスにそのことを確認したのは、レーテを迎え入れた一年ほども先のことだ。事実関係はとうの昔に把握しているのだろうに、期限の許す限りは放置しておくところは、まったくもって父上らしい。
その存在を確認されたのは、サウスが久々にドーム都市へと戻った時のことだった。レーテと一日以上離れるのは初めてのことで、少なからぬ不安をサウスは抱いていたが、それもいずれは通る道と考えることはたやすかった。
「──湖畔で、子猫を飼っているそうだな」
父のせりふはあくまで淡々とした、事実のみの確認だったように思う。
「ええ。とても素直で、高貴な子猫ですよ。この街に居残る、どんな野良猫よりもね」
そうしたサウスの返事に、さて、あの父上は本心ではいったい何を思っていたのだろう。
何を思っていたにせよ、続く話題はすでに湖畔を遠く離れていた。地球標準暦一〇八年、自前で建設したドーム都市をもって自治都市を自称するセトアは、財政の逼迫を前に苦渋の決断を迫られていた。
すなわち、これまで無視を決め込んできた強大な勢力──事実上、地球という惑星の支配を宣言している「地球政府」なる連中の傘下に組み込まれることを是とするか、否か。
「そもそも、例の制度に懐疑的な連中は、技術そのものを疑問視していると聞く。あれはただの大がかりな人体実験だとな」
「……発案者は、ミハイル・ラング氏でしたか。確か、名前の語源はヘブライ語でしたね。Who is like God──神に似たる者は誰か──」
「ふん……。個人の名の由来など、どうでもいいわ。問題は、その背景よ」
記憶にある限り、父の声はいつも不機嫌なものだったように思うが、この時はその傾向にさらに拍車がかかっていたようだ。
とは言うものの、それに対して気の利いたせりふが吐けるわけもなかった。
「ランゲル・ワールズ・コーポレーションですか。おことばですが、我が家程度がかなう相手ではありませんよ」
父の視線が、ちらりとこちらを向いたことが分かる。そう──そんなことはとうに知れたことよ、と言わんばかりの無言の主張。
「……そも、支配階級にある者の在り方というものは、被支配階級にある者の思惑とは大きくずれたところにあることが多い。支配階級にとって必要なのは生産人口であって、人間そのものではないことを知らない被支配者は多い──あまりにも」
「……ごもっとも。それで、何をおっしゃりたいんです? 今日はてっきり、我が都市は政府の庇護下に入ることを決めたという旨の話を聞けるものとばかり思っていましたが」
返答は、すぐには返ってこなかった。
この種の沈黙が部屋に満ちた時は、どう急かしたところで無駄だ。相手を不機嫌にさせることはあれ、好意的な反応を引きずり出すことは難しい。
ふと、レーテの存在をサウスは思い出した。次いで、街のそこここで見る、レーテと似たような年の子どもたちの姿を。
この街に居残る野良猫──もうずいぶん前から父が領民に対して要求している、現在十五歳に満たない子どもを持つ家庭に対する退去勧告は、いまだに功を奏していないように思われていた。
地球政府は、その政策下に入ろうとする人間の年齢を十八歳以上に定めている。もし父が政府の示す法律への批准を急ぐのであれば、いずれは勧告に強制力を付与する必要が出てくるだろう。
「批准と……徹底抗戦。……その両方を、今は視野に入れている」
しばらくの沈黙の後に、父は口を開いた。
「奇妙な情報があってな。出所は東──と言えば、おまえには分かるはずだ。内容は、件の冷凍睡眠法とやらに関連する」
「……東、ですか。それで?」
「地球政府の直轄地のひとつが、極東にあるだろう。十二、三年前だったか、そこに所属していた白髪の研究者が発端になった騒動のことは知っているな」
父の声に、サウスは無言で唇を舐めた。十二、三年前──地球標準暦九四年、あるいは九五年。ああ……そうだ、思い出した。政府軍に対抗するために力を貸してくれと言ってきた組織に対して、父が当時抱えていた医者が作った生物兵器を手配してやったのがその頃のことだったはずだ。
「そう言えば、何やら騒動がありましたね。政府が必死になってもみ消しにかかった──」
「そうだ。それについて、東から情報の提供を受けている。……だが、まだ動くことはできん」
左に行くか、それとも右に行くか。
分水嶺を目前に、父が歩を休めている姿が垣間見えるような気がした。
「……東につくか、極東につくか。その判断をするのは、もうしばらく先のことになるだろう。いずれにせよ、判断が必要になる頃までにはおまえにもそれなりの力を身につけてもらわねば」
なるほど──湖畔の子猫、か。遊んでいる場合ではないぞと、おそらく父は言いたいのだろう。
「……承知しました。向こう一年のうちに湖畔を引き払い、この館に戻りましょう」
ならば、返答は早い方がいい。
迷いのない口ぶりで、きっぱりとサウスは湖畔を切り捨てた。
事態が思いもかけぬ方向に転がったのは、それから一月も経たぬうちのことだった。湖畔に戻り、残された一年に満たない生活をせめて心ゆくまで味わおう、と思った矢先の。
「──様、サウス様。東の視察に出ていたお館様との連絡が途絶えました」
最初の一報は、確かそんなようなせりふだったと記憶している。
時間を追うごとに情報は集まり、そのいずれもが、より悪い結果を示すものばかりだった。東と呼んでいた組織からの連絡が入り、父の死が確定したのは、その年の暮れのことだったか。
そうなれば、とるべき道は決まっていた。最終的に父の視線が分水嶺のどちらに向いていたのかを知るすべはないが、判断のすべては己に委ねられたのだ。
「……予定どおり、湖畔を引き払う。レーテは連れて行く」
父のやり方に全面的に賛成していたのかどうかと問われれば、おそらく、サウスはノーと答えざるを得なかっただろう。湖畔の子猫は美しい──きっと彼女は、我が領地に残ったただひとりの子どもになる。
ああ──そうだ。幼い頃からずっと、父が持つあの多面性を不思議に思っていた。領民に対する時の、息子である自分に対する時の、東を含む、彼の都市を支えるための金銭を生んでくれる人々に対する時の、そのそれぞれをつなぐ「父」その人──。
阿修羅。三面六臂の悲哀の像。
かつて父が立っていたのと同じ分水嶺の前に、やがて、私は立つことになる。
胸の奥に確信を持ってつぶやいた時、確かにサウスは笑んでいた。その意味も理由も、自分では決して分からないままに。
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