湖畔の子猫

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 自分が世に生を受けた時からそうだったのかどうかを知るすべはないが、記憶にある限り、自分にとっての父はとても厳格な指導者だった。幼い頃から不思議に思っていたのはその多面性で、彼の領民に対する時の、自分に対する時の、またあるいは彼が彼を支えるための基盤としていた人々に対する時の、そのそれぞれの顔の間にあるつながりは、長い間理解することができずにいたように思う。
 いや、理解などということばは、おそらくは傲慢に過ぎるのだろう。父の年齢の半分も生きておらず、その生涯をほとんど知りもしない自分が使うには。
 現在かの父上が守っている、そしてゆくゆくは自分が守ることになるのであろう家は、名をエヴィル家と言った。世界の版図が大きく変わったのは約百年前のことだが、それよりはるか以前から広大な土地を所有し、その土地の中に暮らす人民を保護し、時の執政者から「公爵」なる称号を得た家柄だ。
 とは言うものの、己が生を受けた家柄が、果たして高貴なものなのかどうかは知らない。
 時をさかのぼること百年前、「最後の世界大戦」と呼ばれるあの大戦が終わった後、当代の主は自らの力が及ぶ範囲において、中世ヨーロッパにおける封建制度的な在り方を復活させた。いわく、我、領主と自称す。我が領地に暮らす者を我は我が領民と呼び、その生活を守ることを義務とする。他方、我が領民は彼らが領主に仕えることを義務とする……。
 もっとも、彼が唱えたその制度は、歴史上に実在した封建制度と同一ではない。少なくとも領民に軍役が課されているわけではないという時点で、明らかに別のもののように思われる。名称と主従の関係を使い回しただけの、似て非なるもの──あるいは、単なることば遊びだ。環境汚染の影響を避け、私財を投じて建設した半球型のドーム都市の執政者として君臨した彼が、そうした種の制度を採用した理由は、今となっては分からない。
「……様。サウス様」
 思案にふけっていた青年の背後から、強面の男が名前を呼んだ。
 軽く頭を振って雑念を払いおとすと、たいして急ぐようなそぶりも見せずに青年は背後を振り返る。なんだ、という返事を返すことすらしないその態度に、強面の男はなんの反応も見せなかった。
「レーテ様がお呼びです。部屋へお越しを」
「お嬢様か。……放っておいていい。もう三十分もして、それでも新しい遊びに夢中だったらもう一度呼びにおいで」
「は……」
 若々しい容姿に似合わず、青年の口調は人に命令を下すことに慣れていた。姿勢を戻した青年の背中に向けて丁重に頭を下げると、男は開け放したままだった扉を抜けて姿を隠す。
 サウスと呼ばれた青年は机上に広げた本に視線を戻し、先ほどから一行たりとも読み進んでいなかった文章の続きを目で追い始めた。
 その唇の端は笑みの形に上向いていたが、その表情の意味も理由も、誰も知りはすまい。
 ──そう、あるいは、この僕自身でさえも。

 レーテ、という名前を少女に与えたのは、他ならぬサウス自身だった。自分の手もとに来るまでの五年間に、彼女がなんという名で呼ばれていたのかは知らない。知りたいとも思わなかったから、そもそも聞きもしなかった。
 生活をともにするようになった後、いやにたどたどしい発音で彼女が自分の名前らしきものを口にしたことはあったように思うが、聞き入れるつもりがなかったからなのかどうか、その名前そのものについてはさっぱり記憶がない。
 彼女に初めて会ったのは、もう五年ほども前のことだった。とは言うものの、彼女はまったく覚えてはいまい──何しろその当時の彼女は生後間もない赤子で、父親であるはずの男の腕に抱かれ、深い眠りの中にいたのだから。
 その頃、サウスは父親の命令に従い、生まれ育ったドーム都市セトアの外部に暮らしていた。地図を開き、点と点の位置を見やっただけで、送迎もなしに帰るのは無謀だということが一目で知れる程度にはその間には距離があった。
 ドームの外に暮らす必要があったのは、ひとえに勉学のためだ。勉学とは言っても、それは本を読み、教師に習うことでは習得することはできないものだった。つまりは、スラムにありがちな荒事に慣れ、その対処の方法を身につけること。往々にして執政者の意に沿わぬ彼らを従え、都市の財力の基盤を維持できるよう、適度に彼らをもうけさせ、また適度に彼らから搾取する方法を学ぶこと……。
 そうした目的あってのことと最初から分かっている以上、護衛の人間を伴っての外出は、サウスはあまり好まなかった。サウスの身辺を警護するよう、父からの厳命を受けている以上、サウスの身に何かあれば処罰を受けるのは彼らだと分かってはいても──いや、あるいはあの父上のことだ、警護の有無にかかわらず、スラムで襲撃を受けて死ぬようならおまえはその程度の人間だと、あっさりと切り捨てる可能性は十分にあったろう。ならばなんのために護衛をつけるのかと言えば、そうした人間の使い方を覚えるためと、サウス本人からの非難を交わすための予防線。そのふたつもあれば、理由としては十分だろう。
 サウスが父親に与えられ、少年時代からの何年かを過ごした家は、その通称を「湖畔」といった。
 その家が「湖畔」と名づけられたのは、家そのものが塩水湖のすぐ隣に建っていたからだ。豊満な水をたたえた湖は少し離れたところから眺める分には美しかったが、その懐には得体の知れない奇形魚が泳ぎ、水質もよいとは言いがたかった。湖畔での生活にはドームから運ばせた水を使っていたので、不便を感じることはなかったが。
 今から約五年前の出会い──あれは、湖畔に暮らすようになって三年ほどが過ぎた頃のことだったか。当時十七歳のサウスは、いつものように護衛の人間の目を盗み、近くのスラムを散策に訪れていた。まったく身の危険を感じないということはなかったが、その街に暮らす人々の大半はとうにサウスの顔を知っていたし、手を出していい相手とそうでない相手との見分けくらいはつくはずだった。それができないのは新参者か、こうした土地によほど不慣れな者だけだ。サウスは決して喧嘩っ早いということはなかったが、それなりの護衛術は身につけていたし、必要な時には銃を抜くことをためらわなかったから、これまでにも特に問題が生じるようなことはなかった。
 そうした環境下の散策において、サウスがその男の存在に気がついたのは、果たして偶然だったのかどうか。やけに老け込んで見えた細身のその男は、人目がないことを確認するように何度も何度もあたりを見回し、時折、腕に抱えた荷物をじっと見下ろしていた。それがボロ布にくるまれた赤子であると知れたのは、しばらく眺めていた後のことだ。
 ──子捨てか、それとも子殺しか。いずれにしても、珍しい話ではない。いくらか離れたところから、サウスは男のようすを眺めていた。
 幼い子どもを持て余した時は、そうするルートに心当たりさえあれば、殺すよりは売った方がはるかに得をすることができる。臓器が健康であれば使い道はいくらでもあるし、見目麗しい子どもなら、ある程度の年齢まで育て上げれば簡単に買い手がつく。
 辺りには夕暮れが迫っており、気温はとうに下降に転じていた。それに、どうやら雲が出ている──雨雲のようだ。それも、やや重たげな。このようすだと、今夜のうちには降り出すだろう。
 さて、どうするかな。男の行為を止める気などさらさらないが、ある意味では見ものだとサウスは思った。相手がこちらの存在に気がつくか、目的を果たして立ち去るまでは、せいぜい見物させてもらうとするか。
 そんな気まぐれを起こして、サウスはその場に陣取った。しきりに周囲をうかがうようすを見せるわりには、男はサウスの存在に気がつかないままだ。
 目が悪いのか、単に勘が鈍いだけか。いずれにせよ、犯罪に向くような人物ではないな。おまけに、いったい何を決断のきっかけにする気なのか。人目を逃れ逃れてようやく人気のないところまでたどり着いたのだろうに、男はそこに延々突っ立っているだけで、いつまで経っても行動に移ろうとしない。
 それほどにためらうということは、よほど赤子が愛しいのだろう。……それならば、他の何を犠牲にしてでも、その赤子を生かしてやればいいのに。そうする決意も手にかける覚悟もないままそこに突っ立っているだけでは、状況は少しも変わらない。
 気まぐれを起こして男のようすを眺めていたのはいいが、そうして五分も経つ頃にはサウスはあくびを噛み殺していた。この距離からならなんとか、あの男か赤子を的にすることはできるだろう。いっそのこと、退屈を理由に少しばかりの手助けをしてやろうか。この街では、そんな程度の理由で十分だ。もしも狙いが外れたなら、それは赤子が幸運だったか、さもなくば男が不運だったかというだけのことで──。
 乾いた銃声が耳に届いたのは、そんなことを思っていた矢先のことだった。サウスの視界の真ん中で、男は飛び上がらんばかりに驚いたようだ。
 ああ──大丈夫、それほど近くはない。八番街のあたりかな。音が聞こえた方角をのんびりと見やって、それからサウスは男へと視線を戻した。あいかわらず、男との間の距離は遠い。
 だが、目が合った。なるほど、銃声は男にサウスの存在を知らしめる恰好の合図になったらしい。途端、男は喚き声を上げて後ずさり、石か何かにつまづいてしまったようだ。
 そのまま男は尻餅をついたが、腕に抱えていた赤子のことは、どうやら必死の思いで守ったようだった。
 男のようすを眺めていたサウスの表情に、やがて奇妙な笑みが浮かぶ。……馬鹿な男だ。どちらに転ぶ勇気もなくて、ひとり相撲の舞台からいつまで経っても逃れられない。
 ざっ、とサウスの足もとの土が耳障りな音を立てた。物怖じすることなく堂々と歩み寄り、尻餅をついたままわなないている男のすぐ近くまでたどり着く。
「やあ、こんにちは。いい天気だね」
 先ほど仰ぎ見た空の状態を完全に無視して、サウスは男に笑いかけた。無論、笑っているのは上っ面の表情だけだ。
 男からは、なんの返事もなかった。
「かわいい子を連れているね。ああ──ちょっと痩せ気味かな」
 男が抱える子どもをのぞくふりをしながら、サウスは何気なく男自身の姿を眺めやる。健康的とは言いがたい肌の色、黄色がかった目、骨ばった腕。低度から中度の薬物症状、それから、怯えた瞳。何かを言おうとしているのだろうに、その喉から外へと飛び出してしまわない、声。
 地面の上に片膝をついて赤子の上に屈み込み、なんの予告もなしに手を持ち上げると、眠ったままの赤子の瞼をサウスはぐっと押し開いた。深い眠りの中にあるのだろう、赤子の眼球はゆったりと左右に動いている。
「ああ……なるほど。とてもきれいな空色の瞳だ。角膜だけにして売るのはもったいない」
 おそらくは、サウスの言った意味が理解できたのだろう。男は再びことばにならない叫び声を上げて、必死の形相で後ずさろうとした。
「そんなに邪険にしないでほしいな。大丈夫。今しがた銃声に命を拾われたほどの強運が、僕ひとりの存在なんかでひっくり返るわけがない」
 言いながら、色濃い笑みをサウスは口もとに浮かべた。右手を上げてわななく男の上腕部をつかみ、空いた左手で己の耳に触れる。
 器用な手つきで、サウスは左手のピアスを外した。血のような色の石を掌に転がし、赤子をくるむボロ布の上にそっと置く。
「この子を予約するよ。当座の生活費には十分だろう?」
 石をつまんだ指先を離してしまう前に、穏やかな口ぶりでサウスは商談を持ちかけた。
「どうせ、自分で手を下す勇気はないんだろう。僕に預ける気になったら、湖畔へ訪ねておいでよ」
 湖畔。短い単語を、男の震える舌がなぞる。
「そう──湖畔。僕の居場所なら、この街に住む人間に聞けば誰だって知っている」
 言い終えるとサウスは石から指先を離し、男の返事を待ちもせずにその場を立った。

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