かさねる、かさなり

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 後頭部が壁に打ちつけられる、がつん、という音が頭蓋骨にひどく響いた。
 目の前に、火花が散ったようだ。声を上げないよう努めるのが精一杯だった。
「──っの野郎っ」
 噛みしめた歯の間から声を絞り出し、満身の力を込めて相手を押し返す。
自分と対して背丈の変わらない相手は、勢いに押されてバランスを崩したようだった。遠慮なくその体にぶつかり、もつれるようにして床に倒れ込む。
「続きを言ってみろよ、この野郎っ」
 相手の上に馬乗りになると、青年は拳を固めて大声を上げた。きゃあ、とか、うわっ、とか、周囲を囲む野次馬から声が聞こえた気がする。構うものか。
「言ってみろよ! 溝鼠がどうしたって? 住処が違って、だからどうだってっ?」
 殴打の音は、先ほど自分が壁に頭を打ちつけた音よりもひどく鈍いものに思われた。相手が喉の奥で、ひっ、と声を上げ、逃れようと身をよじる。
 もう一度拳を作ると、青年は腕を振り上げた。と、その時、人の輪が割れ、その合間から壮年の男が飛び出してきた。振り下ろしかけた手を止め、青年は舌打ちをする。
「何をしている! 騒ぎの原因はおまえたちかっ」
 飛び込んできた男はひとりではなく、うちのひとりが青年の背後に回って青年を羽交い絞めにした。
「離せっ」
 抵抗したが、分が悪い。あっと言う間に青年は相手から引き離された。
「見ておらんでいい、散れ! じきに講義が始まるだろう!」
 ざわめく人の輪に向かって、男たちのひとりが怒鳴る。
 その声を契機に人の輪は解け始め、青年は無理やり立たされて乱暴に息を吐いた。
「まったく、何が原因だ? 子どもでもない、仮にも監視者候補生ともあろう者が──とにかくふたりとも、来い! 状況を説明するんだ」
 視界の外から、ため息交じりの声が飛び込む。
 青年はできうる限りの憎悪を視線に込め、今しがたの喧嘩の相手をぎろりとにらみつけてやった。

 ……夢、か。
 覚醒のほんの一瞬前、アンディ・マルコフは意識の表層にそうつぶやいていた。それからゆっくり、実にゆっくりと瞼を開く。
 地球標準暦一一五年一一月、アンディは地球政府直轄のドーム型小都市ハバロフへの異動辞令を受け、住処を移したばかりだった。あてがわれたコンパートメント型の個室は広く、住み心地も悪くはない。
 まだ見慣れない天井をしばらくの間ぼんやりと眺めた後、アンディは夢の情景を脳裏にたどった。
 久しぶりに見た夢だった。繰り返し見る夢にはなんらかの根拠を伴うものが多いが、この夢の根拠は現実に起こった出来事そのものだ。あれは一一〇年の夏のことだから、もう五年以上も前の話か。苦々しい記憶をたどって、ふん、とアンディは息を吐く。
 ベッドから立ち上がってさっさと着替え、顔を洗うと、アンディはちらりと時計を見上げた。午前八時二十分。集合時刻にはまだ早いが、これからともに仕事をすることになる面子とは馴染みが薄い。早々に顔を出しておいて悪いことはないだろう。
 与えられた個室を出ると、外はよく晴れていた。
 ユーラシア大陸北東部に位置する小都市ハバロフ、その近辺の冬は長い。しかしドーム型の小都市の中には空が作られ、一年中ほぼ変わりない気温と湿度が用意されていた。日の出、日没もまた、一年中ほとんど同じ時刻に設定されている。小都市内での生活は地球政府による手厚い保護を受けたもので、非常に暮らしやすい生活環境が与えられていた。
 この生活を手に入れるまでに、どれほど苦労したことか。胸の中にアンディはつぶやく。
 地球上には現在、こうしたドーム型小都市が十八ヶ所存在していた。これらの小都市は皆、冷凍睡眠法という法律と超長期的な計画に基づいて冷凍睡眠状態にある人々の身体を保護するための施設であった。より効率的に地球環境を浄化へと導くためには人々の日常的な生活さえ弊害となることから選択された措置で、人々は心身のすべてを政府に委ねてただ眠っている。
 その長い長い眠りの中、人々はいつしか意識を共有し、現実にほど近い夢の世界を構築するようになった。共通する夢と呼ばれるこの現象は標準暦九五年に発見されたもので、その監視にあたる専門家は解析者と呼ばれている。
 アンディはその解析者を目指す訓練生のひとりで、監視者と呼ばれていた。
 ハバロフは世界的に見て規模が大きく、特に優秀な人材が集められることで知られている。そういう都市に異動になったことは実力を認められたということでもあり、まったくありがたいことだ。だが、アンディは喜び以上にしてやったりという気持ちを強く抱いていた。
 五年前の、あの夏。アンディが解析者を志望する者には非常に珍しい政府に未関係な者であることを種に、中傷をぶつけてきた同期の青年たち。
 そのうちの一部、ことに直接の喧嘩相手となった青年が監視者登用試験を突破できなかったことをアンディは知っていた。心理学に関する広範で高度な知識、専門性を要求されることから、人員は常に不足している。政府系の出身であった彼らは、その気になりさえすればコネで何度でも試験を受けられたはずだが、養成所の名簿からはいつしか名前が消えていた。
 ──悪いけど、僕は先に行くよ。記憶の中の相手に向かい、アンディはつぶやく。
 一般人出身で何が悪い。出身や喧嘩沙汰が原因で目立ちこそしたが、それだけだ。
 小都市に暮らす人々のほとんどが集まるセンターへと足を向け、アンディは住居区を抜ける通路を歩み始めた。

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