半月

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 目を覚ますのとほとんど同時に、ひどい重さが全身にのしかかっているのを感じた。
 うつ伏せになっていたようだ。目の前にある左手をわずかに動かすが、上腕部がひどく重い。
 起きなくちゃ、とユウリは口の中につぶやいた。
 起きなくちゃ。起きて──そうだ、ご飯は食べたっけ。食べてる間にリイが帰ってきたら嫌だと思って、食事を部屋に運んだところまでは覚えている。
 重い動作で、ユウリは身を起こした。首までも重くて、頭がくらりと揺れた気がした。
 明かりがつくのを待たず、這うようにして大きめのベッドから下りようとする。引きずった素足に、ふと異質な感触があった。
 その頃になってようやく、静かな音を立てて部屋全体に明かりがつく。体をひねるようにしてベッドの中央を振り向いていたユウリは、思わず声を上げそうになった。反射的に口を抑え、それから体の重みを忘れたようにくるりと体の向きを変える。
 途端、頭がぐらりと揺れた。視界のすべてが湾曲し、少しずつ直線をとり戻していく。
 ベッドの上に両手をついて、ユウリはシーツの上の跡に視線を向けた。
 跡が何であるのかは、考えるまでもなく分かっていた。監視者候補生の制服から着替えた後でよかった、ととっさに思った。口もとが奇妙に緩むのを自覚しながら、そっと己の体を見下ろす。
 不快感は、足のつけ根を伝ってシーツに指を這わせていた。
 次の行動に移るまでに、ユウリは少々の時間を必要としたようだった。とは言え、その間何かを考えていたというわけではなくて、ふっと時間が止まってしまったような感じと言った方が近い。
 やがて一時の自失から覚めると、ユウリは慎重にベッドから下りた。
 もう一度体を見下ろし、汚れた個所を確かめる。
 下着とズボンを替えた頃、少し荒くなっている自分の呼吸に気がついた。大丈夫、と吐息のような声でつぶやき、扉の前に立ち止まる。
 扉の向こう、居間には人の気配があるような気がした。
 この時の逡巡は短かった。軽いとは言えない腕を持ち上げ、扉脇のスイッチを触れる。防音解除を示すランプがついた。
 続けて、もうひとつ向こうのスイッチを押す。ランプがついたとたん、聞き慣れた声がスピーカーから部屋へと飛び出した。
「鍵がかかってるし、多分寝てるんだよ。そっとしとけば」
 リイの声だ。それほど近くはなくて、少し声を張り上げた感じ。
「でも、この頃ようすがおかしいことは確かだろう? 気にしてるのは私たちだけじゃないし……」
 うんと近くで、ダグラスの声が聞こえた。
「ドクターからの伝言も、今日のうちに伝えられるならそれに越したことはないだろう? 早い段階で一度、ユウリと話をしたいと言ってた」
 どくん、と心臓が跳ねたような気がして、ユウリは平たい胸を抑えた。反射的に、息をひそめてしまう。こちらの音が漏れないことは分かっているのに。
 話しながら、ダグラスは扉のそばを離れたようだった。
 声をかけられずにすんだこと、起きていることに気づかれずにすんだことに安堵しながら、ユウリはずるずるとその場に座り込んでしまう。
 部屋を出て行きたい気持ちと、出て行きたくない気持ちが錯綜していた。事情を話せば、多分医務局に行くよう言われるだろう──否、連れていってくれるだろうと思う。でも、どんな顔をしてふたりについていけば? どんな顔をして事情を話せば?
 出て行きたくない、と思った。知られたくない、見られたくない。こんなの恥ずかしいし、男の人に話せない。あって当然、自然なことだけど、それはわかっているけれど、でも、でも嫌。
 おとなになった証拠だとか、これで訓練を受けられるようになるとかいった思考は、不思議なことに気配さえも見せなかった。後々それを思い出してユウリは苦笑いすることになるのだけれど、この時はただふたりに何も知られたくない気持ちだけでいっぱいだった。

 ダグラスとリイ、ふたりがそれぞれの部屋に入るまでを待って、ユウリはそっと部屋を抜け出した。その頃には気分はいくらかよくなって、歩く分には問題はなさそうに思われた。
 ふたりに気づかれないうちにシーツや下着を洗いたかったし、また出血があるのではないかと思うと気が気ではなかった。
 この頃の気分の悪さの原因が初潮、ホルモンバランスの変化にあったことは今や疑いようがなかった。けれどそれは、今だから分かることだ。重度ではないにせよ、抑鬱と呼んでもよさそうなあの状態の中、そんなことに考えを向ける余裕はなかったし生理用品だって用意していない。
 医務局へ行くべきだ、と少し冷めた頭で思った。同時に、面識の深い相手とは言いがたい女医の顔が脳裏をよぎった。
 そう言えばさっき、ドクターからの伝言がなんとか、って少尉が言っていたっけ……。
 ふと思い出し、ぎこちない動きで通信機に視線を向ける。そろそろと歩んで近づくと、通信機の脇にはダグラスの筆跡で伝言が残されていた。今日から明後日までの日付と時間、それに居室の場所を示す数字とアルファベットの表記。時間外の場合はまず通信を、と通信の宛先が走り書きしてある。
 声もなく薄く笑うと、ユウリはメモを手にとった。わたしが知らないうちに、わたしになんの相談もなく呼ばれたわたしのための医師。厚遇を素直に喜べる精神状態とは言いがたかったけれど、自分自身を大切にしてくれる人の存在だけなら感じることができた。

 外気は、日中に比べて多少低く設定されているようだった。周囲はすっかり暗く、作り物の天には月と星がある。
 光源は巧妙に隠されていたが、周囲に完全な暗がりというものは見当たらなかった。治安、という単語を使う必要などない小都市内のことだから、ひとり歩きに不自由や不安があるわけではない。
 普段と違う不自由か不安があるとすれば、体調がひどく不安定で思うように動き回れる気がしないことだった。
 ダグラスの家──もともとはユウリの父親、アンドレが暮らしていた家だが、家からセンターまでの距離はユウリの足でも十分とかからない。家を出ていくらも歩かぬうちにユウリは再び頭がふらつくのを感じ、そこからは近くの壁に寄り添って歩くことにした。
 携帯用の通信機を持ってこなかったことに気づいたのは、さらにしばらく歩いた後のことだった。ドームの外へ出る時には携帯を義務づけられている通信機だが、ドームの中でまで持ち歩く者はそう多くはない。至るところに通信機は設置されていて、連絡に不便を感じることはほとんどないからだ。
 ……わたし、何がなんでもセンターまでは行かなくちゃ。
 ことばが脳内を回りきるまでに、普段よりもひどく時間がかかる気がする。
 初潮の時、こんなに大変だなんて聞いたっけ。個人差があるって聞いただけで、……ああ、でも月経っていつもこんな感じなんだろうか。そんなことを思う間も、足はのろのろと前に進んでいる。
 センターへの道がまったく複雑ではないことは救いだった。「共通する夢」発見後のアンドレは、政府にとり誰にも増して優遇すべき人だったから、住居をはじめとする身の回りには相当の便宜を図られてきた。
 アンドレの事故後、リウィウス兄弟とユウリが同じ住居を使うことを許されているのはユウリが彼の娘であり、彼がリウィウス兄弟の面倒を見ていたからだ。
 それでも、影でこそこそと悪口を言う者がいることをユウリは知っていた。自分のことをあまりいい目で見ない者がいることも知っていた。そもそも解析者という存在自体、遠巻きに見られていることにもいつの間にか気がついていた。
 幼なじみのリイは、この小都市の中で唯一年齢の近い相手だった。何年か前まで暇な時には辺りを走り回って遊んだけれど、いつしかそれもなくなった。口が悪いのはあいかわらずだけど、人前ではいつの間にかことばづかいが少しだけ穏やかになった。それらの変化はごくゆっくりとやってきて、違和感を抱く間もなく過去とすりかわっていった。
 一緒に暮らすようになった頃のダグラスは、まだおとなと言える年齢ではなかった。けれどユウリにとっては身近で頼れるただひとりの人だった。解析者を志したユウリの前に無言で立ち、たちの悪い風評をできる限り近づけまいとしてくれているのを知っていた。少尉だけじゃない、ボウも、コリンも。皆がわたしを守ってくれていた。皆がわたしの、成長を見ている。
 誰もはっきりとは言わなかったけれど、初潮を迎え、いくらか安定して月経がくるようになったら訓練に入るのだということをユウリは知っていた。詳細は専属の医師と相談することになるだろうということや、かなり早い時期からホルモン剤の投与を受けなければならないだろうことも知っていた。もうじき十三歳になるユウリの前に連れてこられた女医がその役割を果たすだろうことも予想していた。知らなかったことや予想外だったことはない、ひとつもない。なのにどうして。
 自分でも、何を考えているのかがよく分からなかった。分かったのは意識して何かを考えようとすると途端に意識が散漫になることだけで、それを止める術はない。
 そうこうするうちに、センターの入り口に迫っていた。ここにたどり着くまで、かかった時間が長かったのか短かったのかの判断さえできない。
 壁伝いに歩く小柄な少女の姿に気づいたのか。センターの入り口が開いて、ばたばたと駆け寄ってくる足音が聞こえる。
「ユウリ? ユウリさん! どうしたんです、大丈夫ですか?」
 駆け寄ってきた男はひとりではなかった。声をかけてきた男がユウリの目の前に膝をつく頃、もうひとりの男がくるりときびすを返してセンターへと駆け込んでいく。人を呼びに行ったのだろう。
 そろそろと瞼を上げ、見上げる男と目が合うとユウリは声もなく笑った、つもりだった。
 意識できたのは唇の端がわずかに動くところまでで、そこから先は夢のない眠りの中のように混沌としていた。

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