半月

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 地球標準暦、という現在の暦名が使用されるようになったのは、今から約百十三年前のことである。
 世界各地に頻発していた民族・宗教・政治闘争が急激な資源の枯渇とその奪い合いによって世界規模の戦乱にまで発展したのが、そのさらに二十五年ほど前のことだ。その頃の暦名を使うなら、西暦二一七〇年代の出来事ということになる。
 終いには敵と味方の見極めもつかぬほど混乱を極めた戦乱を終結へと導いたのは、敵味方関係なしに方々の勢力から結束した有志たちだった。彼らは後に地球政府を名乗り、全世界への君臨を宣言して今に至っている。
 暦名の改定は、その真偽はともかく西暦元年という年に宗教的な理由が用意されているためと、各地で使用される無数の暦の統一を図るためのものだと記録には残されている。 ただし中身に関しては、グレゴリオ暦が真の太陽年を正しくたどっている限り、その制定に宗教的な理由が絡んでいることを問題視する必要はないとされていた。
 さて地球標準暦一一三年現在、地球政府の庇護下にある人々に対しては「冷凍睡眠法」という俗称を持った法に基づく政策がとられている。悪化の一途をたどる地球環境を効率的に浄化へと導くためには人々の日常的な活動そのものが弊害となることから選択された措置であり、対象者は十八ヶ所の政府直轄地──ドーム型小都市の中で百年に及ぶ長い長い眠りのただ中にあった。
 冷凍睡眠法により睡眠する人々は、長い眠りの中で意識世界を共有している。それによる「共通する夢」という現象が発見されたのは早十八年前のことだ。発見者の名はアンドレ・フォルズ、彼はユウリの父親であると同時に、世界最初の解析者となった男であった。
 解析者とは、ドーム型小都市に勤務する人々の中でも、共通する夢を専門に扱う、夢の世界の修繕と安定を職務とする者を指す。夢の世界への同調には慎重に慎重を重ねた対応がとられていたが、同調したきり覚醒できなくなる者、覚醒はできてもその後の日常生活に支障をきたすほどの精神不安を抱える者、あるいは発狂したり自殺したりする者は後を絶たなかった。 そうした中、共通する夢の第一人者であるアンドレ・フォルズその人もまた、夢の世界からの帰還に失敗したひとりであった。地球標準暦一〇八年秋の出来事である。
 現在、訓練と長期的な適性審査を理由に実施されている監視者制度は、アンドレの事故を機に登用されたものだった。リイの訓練はこの制度に基づいており、今はもっぱら手すきの解析者と意識を重ねる同調訓練を行っている。
 解析者にしろ監視者にしろ、その経歴は様々だったが、リイやユウリのように小都市に暮らして勉学と訓練を重ねる者は少数派だった。ほとんどは中央都市ミドルアースにおいてひととおりの勉学を終え、小都市に派遣されて訓練に入る。
 ふたりが小都市に暮らすことを許されているのは、ユウリの父親がアンドレであること、幼くして両親を亡くしたリイの面倒を見ていたのがアンドレであったことが理由だった。無論、ふたりの成績が極めて優秀であることも理由のひとつに挙げられるかもしれない。
 ユウリにとって、小都市に暮らすということは眠ったままの父親のそばにあることだった。毎日とまではいかないが、父親が眠るカプセルが収められた部屋を訪れるのは習慣に近い。
 訪れたところで父親の顔を見られるわけではなかったし、無数に並ぶカプセルのうちどれが父親のものなのかを判別することすらできなかったけれど、ここに来ることがユウリにとってのアンドレとの面会であることに変わりはなかった。
 小さな頃から、あなたは世界の人になる必要なんてないと言われていた。「世界の人」というのはユウリの母親が使うことばで、多分、解析者のことを指していた。
 何ヶ月か前に休暇をもらって帰宅した時には、女の子のする仕事ではないのよと言われた。ユウリが解析者を志したのは八歳の時、アンドレの事故の直後である。ユウリの決意は、母親にはきっと突拍子もない子ども特有のアイデアのように思われているのだろう。
 でも、ママ。わたし、それでもパパに会いたい。
 視界の端に人影をとらえたのは、胸の中にそうつぶやいた直後のことだった。
 顔の向きを変えると、同じ家に暮らし、日々の面倒を見てくれている青年の姿がある。名をダグラス・リウィウスというその青年は、形式上はユウリの養父であると同時にリイの実兄であった。
「少尉」
 話しかけられる前に、ユウリは彼の愛称を呼ぶ。
「コリンとリイから連絡があって。どうしたんだい? 元気がないね」
 優しげに問われ、ユウリは唇を尖らせてうつむいた。
「……別に、そんなことないもん。リイが朝ご飯いらないって今朝になって急に言うから、わたしそんなこと知らなかったのに急に言うから」
 話す間に、ぽろぽろと涙がこぼれてくる。
 どうして泣いてしまうのかが、自分のことなのにユウリは分からなかった。
 対応に困ったようで、ダグラスは無言でユウリを見つめている。人々が眠る隔壁側の巨大なガラスに、うつむいたユウリが映っている。
 睡眠するためには生殖機能の安定が最低限必要な条件として挙げられており、規定年齢は十八歳以上、それも二十五歳までの男女には特に注意を要するとされていた。 訓練に使用する薬剤は、一般の睡眠者に使われているものとは成分が異なっている。睡眠期間や睡眠の質を外部から調整する必要があるためだが、身体に対する一定の負担があることはどちらの薬剤にしても同じであった。いくら成績が優秀とは言え、第二次性徴も始まらないうちから訓練になど入れるはずがない。
 そういうことを、理屈としてだけダグラスは知っていた。
 男の場合は変声と精通、女の場合は初潮と排卵。監視者としての訓練は薬剤の調整を兼ねていて、心身の成長とホルモンバランスを含むあらゆる要素が調整の対象となる。
 ユウリがどんなに成績優秀でも訓練に入れないのは、初潮を迎えていないからだとダグラスは知っていた。これも、あくまで理屈としてだけ。
 そのことは、無論ユウリ自身承知しているはずだ。薬剤の種類や性差による留意点は講義の中に含まれていたはずで、知らない方がおかしい。
 けれど、それを声に出して確認するにはためらいがあった。女親からの説明が望ましいと分かっていても、もともと情緒不安定だったユウリの母親は夫の事故以来すっかり気力を失っていて頼れない。それに彼女は、ユウリが解析者を志すことに賛成はしていない。
 結果、コリンには「まったく、男親は役に立たないわねェ」とからかわれ、リイには「僕は自分のことで手いっぱい」とかわされる。アンドレの親友であった初代の解析者、ボウからは女医を招くことができたと知らせがあったが、たった今のこの状況を打開できるのはダグラスしかいない。
 人の姿が視界の端に飛び込んだのは、ユウリに声をかけようとしてため息を殺したのとほとんど同時のことだった。ありがたい。口の中につぶやき、ダグラスは視線をさっと人影へと走らせる。 願ってもないことに、通路の向こうから現れたのはボウ・グリフィス、何かとダグラスたち三人の世話を焼いてくれる男だった。
 ボウは隣に若い女を伴っている。白衣を身につけているから、例の女医と見て間違いないだろう。年齢は、ダグラスとそうたいして違わないくらいだろうか?
 道すがらこちらの姿に気づいていたのだろう、声をかけてくるのはボウの方が早かった。
「ユウリ、それにダグラスじゃないか。どうした? 息抜きでもしに来たか」
 ボウは屈託のない笑みを浮かべている。
 ユウリはさっとダグラスの後ろに隠れ、おずおずと顔をのぞかせた。ずっと泣いていたわけではないらしく顔は乾いていたが、泣いた跡までは隠しきれない。
「紹介しておこう、ドクター・ハンナ・ガーネットだ。前に話したが、ハサウェイ学区で医学を修めた人でな、昨日、着任してもらった。これから世話になることもあるだろう、挨拶を」
 ダグラスがちらりとユウリを見やると、ユウリは不安げな眼差しをダグラスに向けていた。
「ダグラス・リウィウスです。よろしくお願いします」
「ハンナ・ガーネットよ。若いように見えるけど……」
 長身の女は小首を傾げ、ダグラスの制服の首もとに視線を走らせる。
 存外に露骨なしぐさに、ダグラスは反射的に首の右側にある階級章に手を当てた。その後で自分の反応に苦笑いを浮かべ、口を開く。
「名ばかりですが、中尉の位をいただいています。でもまだ駆け出しで」
「ああ、そう。本当に名ばかりじゃないことを願ってるわ」
 なんでもないことのように言い切られたハンナのせりふに、ダグラスは何を言われたのか、ときょとんとして曖昧にうなずいた。 その後でダグラスは眉をひそめてハンナのせりふを内心に反芻したが、その頃にはハンナの視線はダグラスの隣に移っている。
「あなたがユウリね。大変なことの方が多いと思うけど、力になれると思うわ。よろしく」
 言うと、ハンナはにこりと笑った。もともと目鼻立ちの整った美人だが、笑うとさらに華がある。
 態度の違いが気になってちらりとボウを見やるが、その表情に変化はない。余計なことを気にするのはやめよう、とダグラスは思った。
 ユウリは人見知りをするたちではなかったはずだが、ダグラスの後ろに隠れたままおどおどとしている。少し心配になってダグラスがユウリを見下ろす頃、ユウリは小声でぽそぽそと挨拶をした。
「ユウリです。よろしく……」
 いつにない消極的な態度だが、ダグラスは努めて気づかなかったふりをする。
 ユウリの態度が常と違うことに気づくはずもないが、ハンナは何事もなかったような涼しい顔で隣のボウを見やった。
「続きは日を改めていただいても構いませんけど、どうされます? ボウ」
 ハンナの声にボウは髭を剃った顎に手を当て、ふむ、とうなずく。
「あらかた案内はすんだから、ついでに回ってしまおう。ユウリ、ダグラス、また今度な」
 ボウもまた、ユウリの態度を見て見ぬふりをしているようだった。
 ハンナを伴っての去り際、ボウはダグラスに目配せをよこした。性差が障害になって補佐しきれない部分は女医に任せるしかない、とボウはユウリがこの都市に暮らすようになって間もない頃から言っており、女医の着任は長く望み続けていたことだ。
 初対面とは思えないハンナの態度には驚いたが、ボウの人選なら間違いはないはずだった。少なくとも、そう思いたいという気持ちがダグラスの中にはある。
 ……ユウリを連れて、仕事に戻るか。 ダグラスがユウリを見下ろすと、ユウリは曲げた指を口もとに当ててうつむいていた。沈黙したその姿に不安を抱かなかったわけではなかったが、今は何も言わずにおこうと思った。

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