地球標準暦108年…

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 呼び出されたふたりがユウリの最大速に合わせて通路を駆け抜け、センターを出ると、センター前の広場には人だかりができていた。
「いったい何事です?」
 いつになく騒然とした広場のようすに、ダグラスは不安の雲が湧き上がるのを感じた。十数人、いや、二十人を超える人々が広場に集まっているだろうか? アンドレの事故が発覚し、人々があわててセンターに駆けつけた時のようすを彷彿とさせる光景に、ダグラスは軽いめまいを感じた。
「ママ!」
 めまいを振り切ったのは息を切らしていたユウリの声だ。声につられてユウリを見下ろしたダグラスは、ユウリが駆け出すのではないかと思ったが、想像に反してユウリはダグラスの手を握る手に力を込めた。それどころか両手でしかとダグラスの右手を握り、頬を腕に寄せる。
「ユウリ!」
 高い声が、ユウリに応えた。
 短く息を吸い、唇を噛んでダグラスは広場に視線を戻した。その時になってようやく、広場に集まった人々のうち数人が、ユウリが母と呼んだ相手の進行を阻んでいることをダグラスは知った。
 いったいいつ、どのようにして彼女はハバロフに足を踏み入れたものか? 両親を亡くして以来、恩人と慕うアンドレの妻、そしてユウリの母親である彼女は、ドーソンの報告によればハバロフへの来訪を拒んだはずだ。それなのに何故、彼女はここにいるのだろう?
 ダグラスは胸中に疑問を投げかけたが、答えなど出るはずもない。
 この街を訪れた理由、移動の手段、ハバロフ入都の方法など、判然としないことが多い中で、ダグラスに確信できたのはこの騒ぎの原因がイリーナであるということだけだった。ドドナの監視室でアンドレと面会していた自分たちふたりが呼び出されたのは、イリーナがそうすることを要求したか、イリーナとユウリを結びつけることのできる誰かが察して動いたかのどちらかだろう。
ユウリの隣に立つダグラスを見て、イリーナの表情がかすかに強張った。イリーナは女の力では降り切れない腕にしがみつき、きっとダグラスをにらみつける。
「その子を返して! わたしといっしょに家に帰して!」
いつもは結い上げられているイリーナの髪は、すっかり解けて体の周囲を躍っていた。控えめで感情を表に出すことが少ない女性というダグラスの印象とは、この時のイリーナはまるで違っている。夫の養い子のひとりとしてイリーナはダグラスを知っており、多ければ年に何度かは顔を合わせる機会もあった。だが彼女がこんなふうに声を荒げたことなど、ダグラスの記憶にはない。
取り乱したイリーナの姿に、ダグラスは少なからず動揺していた。
「イリーナ、落ち着いて! 誰があなたにそんな錯覚を?」
 時にことばにならないことばを喚くイリーナに、負けじと大声を発する男がいる。たびたびハバロフを訪れるユウリのことは知っていても、イリーナの名と顔を一致させられる者はそう多くはない。
声の主は、ドーソンだった。
 そうか、ドーソンか。胸の内にダグラスはつぶやく。ドーソンが自分たちを呼び出したのか。
「ユウリ! おいで!」
 もう一度名前を呼ばれると、ユウリはびくりと肩を震わせた。進路を塞ぐ男たちの隙間から出された手がユウリを誘っている。ユウリの視線は、差し出された手とイリーナの顔とを何度となく行き来した。
「おいで! どうしてなの? ユウリ!」
 ユウリはダグラスの手を離し、両手で耳を塞いだ。
 ユウリの手が手を離れた瞬間、どきりとしてダグラスはユウリを見やる。そしてユウリがイリーナに向かって駆け出したわけではないことを知ると、安堵の吐息を吐きかけて飲み込んだ。僕は今、いったい何を考えたのだろう?
「その子が止めるの?」
 呼びかけても動かないユウリに向けて、イリーナはヒステリックな声を上げた。表情は悲痛に歪んでいる。
耳を塞いでも脳裏を揺さぶる声とイリーナの表情を見て、ユウリは顔をくしゃくしゃに歪めた。そして大きく首を振る。聞きたくない。
 男たちに対していっこうに引き下がらないイリーナの剣幕に押され、何もことばを発することができずにいるダグラスに向かってイリーナは叫んだ。
「あなたは、あなたたちはわたしから夫を奪ったばかりか、娘まで奪うと言うの!?」
 心臓が跳ね上がり、ダグラスは呼吸を止めた。ドドナの監視室の技師の鋭い声が耳によみがえる。
いったい彼女はどこから自分の失言を聞きつけたのか? ドドナの監視室でのあのやりとりは、どこかの線を伝ってイリーナの耳もとにも届いていたのだろうか? そんなはずはない。そんなはずは。
「違う、違うよママ! わたし、自分で決めたの。ここに暮らすって決めたの! わたし、大きくなってきっとパパを助けに行くの。それまでずっとパパの側にいる……!」
 出口のない輪に入りかけたダグラスの思考を現実に引き戻したのは、イリーナに向かうユウリの大声だった。それでダグラスはいくらかの冷静さを取り戻し、膝を折ってユウリの両肩に手をかけた。眉間に皺が寄っていた。
ここに暮らすことを自分で決めたとユウリは言った。だが、そのユウリの決断に完成品にほど近い材料を手渡したのは自分だ。そのことをイリーナにどうやって告げよう? とりとめのないいくつもの考えがひらめき、そして消えていく。適当なことばが見つからないことにダグラスは焦り、唇を噛んだ。そうして瞼を伏せかけた時、ダグラスの上に影が落ちた。
 視線を上げると、そこにはボウが立っていた。ユウリとダグラス、ふたりを庇うように腕を横に伸ばしている。ダグラスの位置からは、その目に浮かんだ表情は見えなかった。その代わりのように、ダグラスは視界にイリーナの呆然とした顔をとらえる。何故その子を庇うの、とその瞳はつぶやいているように見えた。
「どういった立場のどんな人間であれ、解析者になろうという人間を我々は歓迎します。我々と本人以外の誰がそれを拒んでも、我々はその意志を守ります」
 淡々としたボウの声は、ざわめきを収めるに足りる力を持っていた。
 ダグラスの視界で、ユウリの視界で、男たちに必死の抵抗を試みていたイリーナは体中の力が抜けたようにぺたんと座り込む。腕の間をすり抜けて崩れた無力な女の前に、男たちは自ずと道を開けた。
進行する力が消失して初めて道が開くなんて、皮肉と呼ぶ他に何と言えただろう? イリーナの口もとに引きつった笑いが浮かんだ。
「あなたまで……」
 かすれた小さな声を、イリーナは喉を奥からしぼり出す。
「あなたまであの街に行ってしまうの、ユウリ? ねえ?」
 ゆるく首を振りながらの問いを受け、ユウリはダグラスの顔を見た。次いでボウの顔を見上げ、唇を結ぶ。
「行かないよ。……あ」
 落ち着いた声でイリーナの問いを否定してから、ユウリは唇を舐めた。
「行く。行くけど、戻ってくる。戻ってくるから」
 ユウリは両方の拳を固く握り、ことばを探しながら宣言した。そうする途中でイリーナが両手で顔を覆い、泣き出したのを見ると、少しだけ気持ちが揺れた。わたしは今、ママがあれほど嫌がった世界の人になる道に足を踏み入れようとしている。
 それが時に、自分と自分以外のあらゆる人間の心に影を落とすこともある道程だということを、ここに至ってユウリは初めて自覚していた。

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