地球標準暦108年…

page7

 結局、男たちの滞在期間が終わるよりも早く、イリーナはユウリのハバロフ行きを許し、自ら男たちに連絡をとった。男たちが帰った後、イリーナがそうしたようにユウリもまた自分の部屋に閉じこもり、顔を合わせないまま夜が明けて、翌朝ユウリは起きてこなかった。
 扉を荒々しく叩き、何度大声で呼んでも起きてこないので、普段は使うことのない合鍵で扉を開けると、ユウリはベッドの上でシーツにくるまって丸くなっていた。泣きながら眠ったのか、瞼がほんのりと赤くなっていた。それ以上起こす気にはなれなかった。
 その日、昼を回ってからユウリは起き出してきたが、ひどく無口で、イリーナが用意した食事には半分も手をつけなかった。イリーナの側でも振る話題が見つからなかったので、いつになく静かな食卓になった。食べ終えるとユウリはまた部屋にこもり、イリーナも家事をすませると部屋に戻った。そのまま知らぬ間に寝入ってしまい、起きたら夜中だった。ユウリが空腹ではないかと思ったが、部屋を訪れても返事はなかった。
 ハバロフからの報告を受けた翌日がそういうふうに終わって、娘も自分も生活意欲を失いつつあることを自覚すると、イリーナは夫から受け取っていた何種類かの向精神薬を使うことを考えたが、それらはあくまでイリーナのために処方された薬で、ユウリに服用させるには抵抗があった。そして夫が口癖のように言っていたことを思い出した。
「薬では何も解決できない」
 惰眠をむさぼるイリーナの部屋をユウリが訪れたのは、イリーナが夫のせりふを思い出した後のことで、ふたりが互いに口を聞かなくなってから丸二日が経過していた。
「ねえ、ママ。わたし、やっぱりパパに会いたい。ドーソンさんにそう言ってよ」
 薄く開けた目で見た娘の表情には不安がにじみ、必死で作っているのであろう不自然な笑みにイリーナは薄い笑みを返した。容姿だけでなく頭脳も夫に似たのだろう、我が子ながら賢いこの子どもはめったに家に帰らない父親を恋しがり、五歳になった頃からは頻繁にハバロフを訪れている。最近では、夫の仕事に区切りがつくたびにハバロフから迎えが来てユウリを連れて行った。ユウリは成績がよく、出席日数は最低ラインを大きく上回っていたので、学校を休むのは実に簡単だった。休暇を申請する目的がハバロフを訪れることであるという点もまた、教師陣にとっては好ましいことだったのかもしれない。
 イリーナには、ささやかなユウリの希望を跳ね返すだけの気力がなかった。
「好きにしなさい」
 そう言った後、ユウリが目を見開いて弱々しく笑んだのを見、イリーナはふたたび浅い眠りに落ちた。ユウリはドーソンへの連絡を急かすことはせず、黙って部屋へと引き返していった。ハバロフを訪れる時には、身の回りのことは自分でするという約束をユウリはイリーナと交わしていた。
 イリーナの連絡を受けたドーソンはいそいそと再訪し、ユウリの代わりに励ましのことばを残していった。
「あまり気落ちされませんように」
 ドーソンとしては、白々しいせりふと分かっていても、それ以上何も口にすることができなかったのだろう。
 母と娘、ふたりの生活から一転、ユウリの姿が視界から消えると、イリーナは催眠剤を飲んで眠ることにした。夢をみないほどの深い眠りだけがずっと続いてくれればいいのにと、わざわざレム睡眠を減少させる薬を飲んでみたけれども、期待したほどの成果はもたらされなかった。故意に睡眠の質や脳波を調整することはそれほど難しくはないが、身体には少なからぬ悪影響を与える。そのことを危惧したアンドレがわざわざ最弱の薬を選んでくれたことをイリーナは知っていた。立場上、夫には一般には使用を禁止されている薬も手に入れることができたはずだとイリーナは知っていたが、それを利用してより強い薬を手に入れたいと願ってはならないということも同様に知っていた。娘には饒舌な父親だが、イリーナには寡黙な夫が、そういう形でしかイリーナを気遣うことができなかったということも。
 イリーナは何度となく同じ心象風景を抱き、同じ夢を繰り返しみた。薬の影響だとは考えなかった。すべてはわたしの内側からやってくるもの、すべてはわたしの記憶の産物。
眠りの中で、もうこの夢を何度繰り返しみただろうと考えることは珍しくはなかった。
 夢の舞台は今はなき街、マーチ家のような資産家の屋敷が点在する都市ドドナだ。イリーナの側にはみっつ年上の友人の姿があった。マーチ家の敷地の一角には小高い丘があり、短い草の上に座って街を見下ろすのがイリーナは好きだった。そこがイリーナの気に入りの場所であることをナタリーは知っていて、イリーナの姿が見当たらない時には、決まってそこを探しにくるほどだった。
「申請を取り下げたと聞いたわ、イリーナ」
 夢が何度となく繰り返されるように、ナタリーの質問もまた、何度となく繰り返されている。自身への睡眠を許可する書類を手に声をかけてきたナタリーの姿は、夢の中では少しにじんでいた。
「結局、わたしひとりが睡眠することになるのね。寂しいわ、イリーナ。あなたのことが好きだった……」
 ナタリーの声には攻め立てるような色はなく、と言って疑問符を添付しているわけでもなく、予想ずみだった悲しむべき結末を口にしているようなふうだった。淡々とした声は、それ故に本心を吐露させるもののように聞こえた。
 知り合ってから数年、思えばナタリーが声を荒げたことなど一度もない。少なくともイリーナは、ナタリーが取り乱した姿などは見たことがなかった。穏やかで聡明、誰に対しても分け隔てなく振る舞うその姿に、後になって思えばどれほど救われていたことか。
「彼に聞いたわ。彼は遺伝上の欠陥を過去に指摘されていたから、もともと審査を受け付けてもらえるはずなどなかったのだと」
 話しながら、ナタリーは穏やかにほほえんでいた。だがそれは無理に形作られた笑顔のようで、ひどく弱々しく感じられた。そんなことを思いながらナタリーの顔を見上げると、視界が歪み、表情がぼやけた。十四年も前の記憶ともなればそんなものか、と夢の中のイリーナは考える。
「彼もわたしも天涯孤独の身の上よ、ナタリー。あなたはとてもよくしてくれたけど、それでももしわたしが彼なら、どんな理由があったってひとり残されるのは嫌。誰かが残ってくれなけりゃだめなの。支え合うことが必要だから」
 音もなく視界が歪んだ。そうなって初めて、イリーナは自身の視界がいつしか力を取り戻していたことに気づく。失わなければわたしは満たされていたことに気づけないのだと。
「知っていたわ、イリーナ。彼を愛しているのでしょう?」
 イリーナは黙し、瞼を半眼に伏せて街を見下ろしていたが、ナタリーの視線が自身をそれたことは察していた。そしてナタリーの視線は二度とこちらを向かない。そうでないことをイリーナが望まない限り二度と。
「大丈夫よ、わたしなら。目覚めたら、サキュレー家のマージと結婚することになっているの。悪い人じゃないわ……」
 静かな声は、形あるものを崩壊させる衝動を招いているようにも聞こえた。イリーナは夢の中で目を閉じた。唇が歪む。
「あなたはそうでも、アンドレは……」
 そして意識の奥で考えた。わたしは何度、このせりふを繰り返せば気がすむのだろう。
「彼が嘆いているのは眠りを許可されなかったことではないわ。あなたと離れることよ、あなたとともに生きていけないことよ。それを彼は嘆いているの」
 ことばは発すれば発しただけ力を持って、イリーナを束縛する縄となる。
 何度となく夢に現れるナタリーとの会話は、思い出すたびに濃度を高めていくようだった。

Copyright(C)2004−2005 こんぐ