地球標準暦108年…
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地球標準暦九四年、都市ドドナに暮らすイリーナとアンドレは天涯孤独の身の上で、マーチ家という資産家の世話になっていた。マーチ家にはナタリーという名のひとり娘がいて、みっつ年上の彼女はイリーナのことを何かと気遣ってくれていた。
ナタリーは美しく気高く、そして聡明な娘だった。
マーチ家のような資産家は、たびたび身寄りのない者を引き取って仕事を与え、生活を保護することがあった。そうした家の中には、従属と労働を強要する家もあったようだが、マーチ家はふたりに快適な暮らしを与えてくれていた。当時イリーナは十八歳、アンドレは二十五歳、ともに冷凍睡眠法の適用を受けることのできる年齢に達しており、三人でそろって申請を出したのを覚えている。
冷凍睡眠法の適用を受けるには、いくつかの条件を満たす必要があった。十八歳以上であること、生殖機能に異常がないこと、遺伝性の疾患を持たないこと、心身ともに健康であること、親族に反政府主義者がいないこと、同じく親族に政府関係者がいないこと、そして私有財産のすべてを政府に委託できることというのがその条件の代表例だ。申請後、二ヶ月をかけて書類審査が行われ、通過者には通知が届いて身体検査に赴くことになる。
そろって出した申請のうち、返ってきたのは一通だった。
「決して懸念がなかったわけではありません。申請を出したにもかかわらず、ご主人は眠ることができなかったひとりだということを我々は知っていた。確かイリーナ、ご主人に申請が下りなかったのは遺伝上の素因を問われたからでしたね?」
ドーソンのせりふは疑問形をとってはいたが、声音には確信がぶら下がっている。
イリーナはゆっくりとうなずいた。
「そのとおりです。あの当時使われていた薬剤、確か第三種薬剤だったと思いますけれど――その薬を使うことで、遺伝子が変異する可能性が高いと主人は指摘を受けていました。薬に対する耐性がなかったのです。あの当時の申請者の中では、一〇万人にひとりの確率だったと……」
「その素因は、この子にも受け継がれていますね? 色素への強い影響――白髪と赤い瞳、そして極度の弱視」
「内緒だって言ったのに! ママ!」
ユウリは大声で母親を非難したが、イリーナは視線でユウリを制した。ユウリは唇を曲げ、ぷいとそっぽを向いてしまう。
生まれついての容姿に、ユウリは少なからぬコンプレックスを持っていた。劣等感の遠因は、ものごころつく前から髪を染め、視力の補強を兼ねたレンズを装着することを強いられてきたことにあるのかもしれない。日毎伸びる髪を頻繁に染め、定期的に専門家のもとを訪れてレンズの調整を受けることは、生を受けた直後からユウリを束縛する習慣だった。
「ですが、イリーナ。薬剤の改良が進んで、第四種への移行が始まった時、ご主人には政府側からの打診があったはずです……」
ふてくされたユウリをちらりと見やった後、ドーソンは静かに言った。
イリーナがうなずくまでには、少しの間があった。
「ご主人は再申請をされませんでしたね。……我々の油断の理由をお分かりいただけますか、イリーナ……?」
眉間に皺を寄せ、瞼を伏せてイリーナはうなずいた。
深いため息を吐き出して、前のめりになっていた姿勢を直し、ドーソンは横目で窓の外を見た。
嫌な役目だ、と胸の奥ではつぶやいている。同じ都市で働く者の妻と顔見知りの幼い子どもに事故を伝える役割など、いったい誰が好き好んで引き受けるものか。連絡役にドーソンが選ばれたのには母子との面識があることが理由だと聞いたが、それなら他にも適任者はいたはずだ。若すぎる者では信頼性に欠けるからな、と一言つけ加えることを忘れなかった上官の顔を思い出し、ドーソンは口もとを歪めた。
汚れ役を引き受けたドーソンには、まだ確かめねばならぬことがある。
「最後に、イリーナ。ひとつだけうかがいます」
膝の上で手を組み、再びドーソンは身を乗り出した。イリーナはちらりと視線を上げ、すぐに床に落とす。
「措置について、何かご希望はありませんか。我々はご主人とあなたがたのために最善を尽くします。もちろん面会も可能です」
ドーソンのせりふの途中で、イリーナはそっと唇を吊り上げて笑んだ。薄く開いた瞳は複雑な色を宿していたが、すぐに統合された。
そしていくらかの沈黙の後、イリーナは顔を上げる。
正面からドーソンに向き直ったイリーナの表情には、穏やかな笑みが乗っていた。
「主人のことは、そちらで決められたらよろしいでしょう。何故なら」
そのように強く意識するふうではなく、淡々とイリーナはことばを紡ぐ。
「主人はわたくしの夫であり、この子の父親である前に、人類と世界に共有の財産――世界のために生きる人です。そういう人の生についてわたくしに決定権をいただけるとは思いませんし、判断をしたいとも思いません。わたくしは最初からすべてをそちらにお任せしております」
笑みが張りつけただけの誇張であることなど、一目瞭然だった。
沈黙を守っていたユウリの顔が母親を向き、そのことばの意味をゆっくりと消化するようにかすかに唇が動いている。ふたりの男の目もまた、イリーナのほほえみを凝視していた。ドーソンは目を見開き、眼球に強烈な渇きを覚えてあわてて瞬く。
「しかし――しかし、イリーナ、それではあまりにも……」
「結構です。何より……」
イリーナはきっぱりと言い放ち、一旦ことばを切った。
「何より、面会をしたところであの人にわたしたちの声が届くわけではない。それならばいっそ、このままお帰りいただいた方が」
「わたし! わたし、行くよ! パパに会いたい!」
イリーナのことばを遮って、ユウリはもう一度、大声を上げた。今度は母親の視線に意思を遮られぬよう、イリーナの腕を両腕でつかみ、目はドーソンに向けている。
「ユウリ!」
鋭い叱責が飛んだ。
「わがままを言うんじゃありません! よりにもよってこんな時に――ユウリ、あなたはいつだってそう。何でも思いどおりになるなんて思わないで!」
「だって、だってママ……!」
ユウリは口を開いたが、母親に対抗するだけのことばは出てきそうになかった。泣いても喚いても、説き伏せることなどできないと分かっている。今日はとても忙しい日だ。拗ねて怒って、最後には顔が歪んで涙が出る。
「だって、パパに会いたいよ。パパ死んじゃうの?」
最後にそう言ったきり、ユウリは泣き出した。イリーナは沈黙し、唇を噛む。
やがて大きく息を吸うと、口を挟めずにいるふたりの男、特にドーソンに向けてイリーナは声を発した。
「子どもの――」
声は少し、かすれている。
「何も知らない子どもの言うことです。どうかお気になさらず……」
「イリーナ……」
イリーナは口をつぐんだ。
うつむき、黙したイリーナと泣きじゃくるユウリを、しばらくの間ドーソンはじっと見つめていた。いくつもの迷いが胸中を到来し、去り、また戻ってくる。
夢の世界の一員としてではなく、夢の世界に巣くう病巣を取り除く者としてアンドレが睡眠した以上、その夢から覚醒できないということは緩慢な死を意味していた。そのように伝えるまでもなく、イリーナとユウリは報告の真意を了解している。そういう確信がドーソンにはあった。この幼い子どもは賢い、とても賢い。八歳の誕生日を迎えたばかりとはとても思えないほどに。
「イリーナ、もしよろしければ、この子だけでも面会させてやりませんか? その……もちろん、無理にとは言いませんが……」
迷った末、ドーソンは遠慮がちに提案した。涙に濡れたユウリの目がドーソンを見やる。
イリーナは動かなかった。
「イリーナ。もしかしたらこれは、数少ない機会になるかもしれません。それに私たちはもともと、彼女を迎えに来る約束をしていた」
言いながら、己のせりふの陳腐さをドーソンは自覚していた。
白々しいとまでは言うまい。だがいったい誰がこんな提案を両手を上げて歓迎してくれるだろう? 気持ちの上だけでなら、幼い子どもに面会くらいさせてやれと言ってくれる者はあるだろう。だがそれは所詮、無責任な哀れみでしかない。その後のユウリの気持ちに責任をとることのできる者などいない。そんなことは十分に分かっている。
「返事を急がれる必要はありません、イリーナ。私たちは今日を含めて四日間、この付近に滞在することになっている。すべてご主人とあなたがたのために割かれた時間です、どうか心のままにおっしゃってください。最善を尽くしますから」
言い終えるとドーソンはうつむき、額を抑えた。陳腐なことばをどれだけ並べたところで、力が増すなどありえない話だった。
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