地球標準暦108年…
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ハバロフの内部にあるアンドレの住居は広く、ユウリとイリーナ、ダグラス、ボウ、そしてリイの五人が泊まっても、まったく不自由を感じることのない部屋だった。イリーナは家から持参した催眠剤を飲んで眠り、ユウリは、これが最後の一夜になるかもしれぬとイリーナと同じベッドで眠った。規制のない情報の流通を嫌悪する地球政府は、各直轄地に対して必要外の情報公開を慎むよう厳命しているし、場合によっては出入りさえ禁止される。センターに勤務する者の中でも特殊な専門家である解析者には比較的自由が与えられていたが、それは実際に解析者としての仕事をこなすようになってからで、それまでの教育期間中には何かと行動を規制されるということをユウリはこの日初めて知った。
何度となく寝泊りし、すっかり慣れていたはずのアンドレの住居が、この日はやけに広く感じられたのは、父親の姿がどこにも見当たらなかったせいだろうか。今日はなかなか寝つけないかもしれない、とユウリは思っていたが、薬効で深い眠りの中にあるイリーナの表情を見ているうちに眠くなって、思うほど夜更かしをしてしまうということはなかった。イリーナがひどく不安がったので、部屋の照明をつけたままにしてあったのだが、そのことは気にもならなかった。
ふたりの眠る部屋から漏れる灯りを見、冷めたコーヒーをすすりながら、ダグラスはひとり考えにふけっていた。すぐ側のソファではリイが寝息を立てている。少し離れたところにあるいすにはボウが座っていて、ボウは常と変わらぬ平静な表情で端末に向かっていた。
「明日も早いのだろう? あまり遅くまで起きていない方がいい――それに、リイはどうするね」
なくなりかけたコーヒーをカップの中で弄んでいたダグラスは、静かに声をかけられて顔を上げる。
ボウは端末の操作をする手を休めて、上半身をこちらにひねっていた。
「ベッドに連れて行きますよ。でも、僕は……」
口もとを手で覆い、ダグラスは瞼を伏せる。そしてふと、眠気がないというわけではないのだなと思った。
ボウからは何の返事もない。ダグラスは何度めかのため息をつくと、苦い笑みを浮かべる。
「ボウ。笑わないで聞いてください。僕は今、ユウリを誘ったことをひどく後悔している……」
うん、とも、ふむ、とも聞こえる相槌を打って、ボウはダグラスにせりふの続きをうながした。ダグラスがこちらには顔を向けないので、ボウも姿勢を戻し、端末に向き直ることにする。
「ずっと考えているのです。解析者という仕事は、人々の――それも不特定多数の人々の意識の奥底に入り込むことを前提としていて、今回のような事故は後を絶たない。もちろん政府は解析者の教育に全力を上げてはいますが、小父さんでさえその危険から逃げることはできなかった。……それなのに」
ダグラスは額を抑え、再びうつむく。
「それなのに……僕があんなことを言いさえしなければ……」
つぶやき終えると、ダグラスは唇を噛んだ。ボウはキーボードの横に手を置いて、ふむ、と髭の剃り跡をなでる。
「なあ、ダグラス。君はいったい、自分をどれほどの人間だと思っているのだね?」
しばらくの間を置いてダグラスを向き直ると、ボウは穏やかな口調で尋ねた。ダグラスはすぐには声を返さず、瞼を伏せてうつむく。
膝の上でゆるく組んだ指にほんの少しだけ力を入れると、ダグラスはふっと息を吹き出した。
「申し訳ありません……。立場も考えず、不用意な発言でした。反省しています……」
声は静かで、少し震えている。ボウはうつむいたダグラスの頭をしばらく無言で見ていたが、やがて肩を震わせて笑った。
「違う違う。そうじゃない」
「はい?」
笑い出したボウの真意とことばの意味がつかめず、ダグラスは不安げな瞳を上げる。ボウは人の悪い笑みを浮かべた。
「私が聞いているのはこうだよ。君はつまり、それほど他人の生に対して強い影響力を持った人間だと自分を評価しているのかね?」
「は……?」
ダグラスはきょとんとし、眉をひそめ、瞬いた。そして次の瞬間には考えた。確かに自分はまだ若い。五十代目前のボウから見れば子どもと孫の中間ほどの年齢で、人間的な未成熟を指摘されるのは当然だろう。しかしそれにしても、これはひどい言いようではないか? 不信がダグラスの瞳を過ぎる。
「私にはね、ダグラス」
ダグラスの反応などおかまいなしに、ボウはにやにやと笑いながらことばを続けた。
「私には、たとえ君が何も言わなくても、あの子はこうある道を選んでいたように思えるよ。何も君の責任じゃない」
そうなるまいとしても、憮然とした表情にならざるを得なかったダグラスは、こちらを向いてにやりと笑ったボウの視線に合って表情を変えた。そしてボウの言い回しに少なからぬ不満感を抱いた自身をダグラスは即座に恥じた。ダグラスの顔に照れ笑いが浮かんだのを見て、ボウは軽く息を吹き出して笑う。
「その証拠にな、ダグラス。少なくともイリーナは、ユウリがそういう気持ちに至るだろうことを知っていたようではなかったかね? 母と娘という関係あってこそかもしれんが、だとすればなおさらそうさ。ユウリは選ぶべき道を選んだだけだ」
ダグラスは何度となく軽くうなずきながら、ボウの話を素直に聞いた。それと同時に、己の至らなさを思い知らされてもいる。だがそれを不快に思わないのは、ひとえにボウへの尊敬によるものだろう。
大きく息を吸うと、ダグラスは静かに笑んだ。そしてふと思い出したことがあって口を開く。
「そう言えば、ボウ。そのイリーナですが、いったいどうやってここまでたどり着いたのかは分かりましたか? とてもではないが、彼女ひとりで来られるはずもない」
当然の疑問に、ボウはああ、と軽くうなずいて見せる。
「本人から聞いたわけではないがね……。ユウリがドーソンとともに出発した後、食糧運搬車を捕まえて乗り込んだんだそうだ。それで次の集落に移る転換点まで来て、そこからは徒歩のようだよ。十キロ……いや、十一、二キロほどはあるんじゃないかな」
「何ですって? 徒歩?」
ダグラスは目をむいた。ボウは腕を組み、驚きも当然と言わんばかりの表情だ。
「砂嵐に襲われなかったのが幸いだよ。方角を見失わずにすんだこともね……。何事にも一途な女性とは聞いていたが、これほどとは思わなかったよ」
くっく、と喉を鳴らしてボウは笑っていた。イリーナの性格をボウが知っているとすれば、そのほとんどはアンドレから聞かされた話なのだろう。ダグラスの驚愕は楽しげに笑うボウの表情に打ち消され、そのうちに驚くほどのことではないような気がしてきた。
女性としての一途さ、人の親としての強さか。そういうものに自分のような若輩は口を出すべきではないのかもしれない。ボウが軽々しい口調でそういうことを話せるのは、きっとそれを理解できる年齢に彼が達しているからだ。
「そこまで来たら、後は簡単だろう? ハバロフの外からドーソンを呼びつけて入都手続きをさせるだけのことさ。もちろんドーソンはあんな騒ぎになるとは思わなかったと報告してきたがね」
驚愕からしだいに落ち着きを取り戻したダグラスの顔をちらちらと見ながら、ボウはあいかわらず人の悪い笑みでもって話を締めくくった。端末の電源を落とし、両腕を上げて伸びをする。時刻はすでに、〇時を回っていた。
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