PIETA 第一章
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国王夫妻負傷という思いも寄らぬ事態に所属を同じくする騎士たちの一部が騒然とし、その出来事が王城に届けられようとしていた頃、近衛騎士団の中でも新王の腹心としてその名を知られているオーランは、暮れゆく空の変化を呑気に眺めていた。邸の外側に向かう壁のやや上部の小窓の向こうで、空は徐々に色を変えつつある。
これから臨む相手と話さねばならぬ今後の予定を思い、オーランの心中は晴れやかとは言いがたかったが、それはあくまで個人的な感情がもたらす心境で、いたって日常的で他愛のない要素に過ぎなかった。時にはそうした要素が何がしかの影響を未来に与えることもあるが、それもせいぜい個人の行動を左右する程度のことだ。このしばらく後に伝えられることになるディリータの負傷に比べれば、持っている影響力は実にささやかなものである。
やがてノックもなしに背後の扉が開かれた時、オーランは少なからずぎくりとしたが、それは後ろめたさのなせるわざだった。今まで隠していたことを明らかにするという目的で呼んだものの、そもそもこの件を彼女に伏せておいたのは否定されることはあっても肯定されることは決してないと分かりきっていたからだ。隠していたことのうち、いくらかはとうに筒抜けだと分かっているのだから、どんな反応があろうと受け入れることを覚悟して正直にすべてを公開してしまえばすむことなのに、いったん秘密にしてしまったことをこれから明らかにしようという時、当人はいたって真剣に考え込んでしまうものなのかもしれなかった。
無言で部屋に入ってきたバルマウフラを肩越しに振り返って見た時、オーランの顔には引きつった笑いが浮かんでいた。そうしている本人は、精一杯の笑顔を浮かべているつもりなのかもしれない。もっとも、日中の灯り取り用の小窓から入る光がある他には蝋燭の灯りがあるだけの部屋の中では、表情をはっきりと見てとることはそう簡単ではなかった。
「言われたとおり、来てあげたわよ。それで言いたいことは何」
のっけからバルマウフラは、不機嫌極まりない声を発した。時間を置けば多少は機嫌を直してくれるのではないかと思っていたのだが、どうやらそううまくはいかなかったようだ。
壁に向き直ると、オーランは視線を落とし、予想の範囲内の反応に渋い顔を作った。それから喉の奥で咳払いをし、決意を固めてゆっくりと向き直る。
「その……実は、非公式に、なんだが」
体の向きを変えたものの、視線だけはどこともつかぬ床の一部に注いだまま、きまり悪い顔をしてオーランはぼそぼそと白状した。
「ロマンダ東端の小領土、マルヴェリの領主オルド公がルザリアに滞在されていることは知っているね。そのオルド公のご息女が一両日中にゼルテニアを訪問される。それで……」
ことばを区切ると、恐る恐るといった態でオーランはそろそろと視線を上げる。不機嫌に腕を組んで立っているバルマウフラと目が合うと、その口もとには曖昧な笑みが浮かんだ。
バルマウフラがさして驚きもしないのは、やはりこの程度のことはすでに彼女の知るところだったからだろう。魔道士としての実力に加え、諜報活動に関する一流の能力は、幼い頃からそれなりの訓練を受けて育ったから持っていて当然だと言われればそれまでだが、そういう能力を必要とする一部の人間からは実にうらやましい才能の持ち主である。
「それで……」
「それで?」
せりふの途中で止まったまま、もごもごと口ごもるオーランににっこりと笑いかけながらバルマウフラはことばを受けた。声音も口調も特に普段と変わりないが、笑っているのは口もとだけだ。
「それで……その、君は、どのあたりまで知って?」
「さあ?」
絡め手からと投げかけた疑問符は、さらりと短くかわされた。短い沈黙にオーランは視線をそらし、口を閉ざしてしまう。
「そうね、たとえばこういうことなら知っているわね」
いつまでも不毛なやりとりを続ける気はないのだろう、バルマウフラは沈黙をあっさりと破り、次いで、コツ、と足音を立ててオーランに近づいた。
「自治権の確立と港の専有化を目的としてロマンダ本国と派手にやりあっているマルヴェリが今もっとも必要としているのは戦のための資金ね。内乱の立役者が物見遊山に来るとは思えないけれど、資金調達のための密談となれば話は別だわ。近い将来」
バルマウフラはぷつりとことばを切る。この頃にはオーランとの距離はほとんど埋まって、頭ひとつ分には満たない身長の差を埋めるようにバルマウフラは視線を上げていた。
「この国の中に居場所を失って途方に暮れている誰かさんの亡命を受け入れることで資金を捻出させられるなら、彼らとしては万々歳といったところかしら。我が陣営に属する人間の一部が誰かさんを血眼になって探していることを知りながらここを訪れると言うのなら、どうしてなかなかいい度胸の持ち主ね? それであなたが、たとえば彼らの要求に応えるつもりなのかどうかは知らないけれど」
声を聞く限りでは、バルマウフラはいたって冷静だ。ことばをつむぐかたわらで、バルマウフラは瞼を伏せてややうつむいた。
「館の南側にはすでに受け入れの態勢が整っているわね。公女の滞在は、そうね、二月ほどにもなるのかしら」
体温を感じるほど側に寄ってうつむかれてしまっては、オーランからバルマウフラの表情を見ることは難しい。こちらから改めて説明するまでもないほどの情報をバルマウフラが持っていたことに驚く一方で、簡単には首肯できずにオーランは唇を結んだ。そのとおりだよとあっさりと答えることができなかったのは、疑問形を持ってまとめられたバルマウフラのせりふに間違いがあるからではなくて、その声音があまりにも淡々としていたためだ。早口にまくしたてられるとか、仏頂面で痛切な厭味を言われるとか、そうした反応なら想像の範囲内だったけれども、こんなふうに静かにしていられると、かえって反応に困ってしまう。
返答に窮したオーランが黙っていると、バルマウフラは瞼を開き、そしてきっとオーランをにらみつけた。
「馬鹿じゃないの?」
顔を上げた後の口調は、先ほどとは打って変わって早口だ。
「ラムザの件といいその何とか公女の件といい、あなた馬鹿よ。彼らに肩入れして誰が称えてくれると言うの。確かにディリータはあなたの能力を買ってこの地位を与えたに違いないわ、でもそれを妬む人間がいることはお分かり? 隙あらばあなたをその座から引きずり落とそうとしている輩がいることをご存じ? 自分で自分の首を締めるような真似をして、よく平気な顔をして立っていられるものね!」
せりふの途中で組んでいた腕を解き、バルマウフラはオーランの両腕をつかんだ。勢いに気圧されてか、それとも他の理由からなのか、途中に口を挟もうともしない相手をにらみつけるうちに、涙で視界が歪む。
オーランは静かに息を吸い、視線を上げて瞼を伏せてからそっと息を吐き出すと、右腕を上げてバルマウフラの肩に触れた。腕をつかんでいたバルマウフラの手に力はなく、振り解くまでもない。
訪れた沈黙を、いつまでも延長させるつもりはなかった。
「公女は」
肩から背中にするりと下ろした腕にいったんは力を入れると、力なく寄りかかってくるかに思えたバルマウフラの両腕をつかみ返して正面から顔を見、オーランは真意のつかめない笑みを浮かべた。その笑みは、見る者によっては己の生さえ達観したものに思えたかもしれない。少なくともそれは、投げやりで乱暴なあきらめの表情ではなかった。たとえばバルマウフラが口にしたような懸念などとうに承知していて、その上で己の行く先を選んでいくようなやり方――だがそれは、道を行く当人を案ずる者にとっては、時に思いも寄らぬ苦痛と心労の種でしかない。
「まだお若いが聡明で、占星術に関して造詣が深い方でもあるのだ。行動的な人でね、古くからの知己だ。五十年戦争が終結する前からの」
オーランの声音は静かで、こういう時、彼の声には受け入れを感情的に拒否することを許さない力強さがあった。
こういう人だから、あらゆるものの重みを承知した上でそのすべてを秤にかけてしまえるほどの男だから、かつてディリータと自分が手を組んで演出した彼の義父の謀反後も、その人となりを好いた人間が彼のもとには集まったのだ。あるいは遠い将来、その在りようを誇らしげに語る者が現れるかもしれないし、他の誰が彼を非難しても自分だけは永遠に彼の味方だと公言する者が現れるかもしれない。そういう未来を、バルマウフラは容易に想像することができた。だがそれは多分、彼自身がこの世に生をとどめている間の話ではない。
「公女がゼルテニアを訪れるのは独立資金をかき集めるためではないよ、安心していい。目通りがかなうかどうかはともかく、この国の歴史に永遠に残るだろう英雄王その人に興味があるというだけのことさ。それで」
いつしか体中の力を抜いてオーランにもたれかかり、瞼を伏せてバルマウフラは穏やかな声を聞いた。涙はいつしか引いて、代わりにこみ上げてきたのはやり場のない哀憐だ。
「それで、たまたま交流のあったおれのところに連絡が来たまでのことさ。本当に安心してくれていい……」
柔らかな髪にそっと手を触れ、笑みを浮かべたままでオーランは言った。絶対に引けない最後の一歩だけを残したら、あとはどこまでだって後退できるさ、というせりふは胸の中にとどめておく。
「それでも、あなたの心配をするのはわたしの勝手よ。そのことについて文句なんて言わせやしないわ……」
しばらくすると、独白のようにぽつりぽつりとバルマウフラはつぶやいた。ようやく聞き取れる程度の小さなつぶやきに目を細めると、うん、とオーランは小さくうなずき返した。
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