PIETA 第一章
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血液が付着したままの短剣を持ったまま、女騎士が大地を蹴って石の壁の向こうに隠れるのと、探し人を求める一団の先頭が石造りの門を通り抜けるのはほとんど同時のことだった。
「国王陛下ッ」
一団の先頭にいた騎士は、半歩後ろの同僚が上げた声の鋭さに息を飲んだ。声をかけられた相手、ディリータ・ハイラルという名の青年からは何の反応もない。
騎士たちの先頭に立って教会跡の門をくぐったふたりの騎士は、状況を把握するまでに一時の自失を経験せねばならなかった。それは無能故ではない、そこに倒れた男女の素性と過去、あるいは能力を知ればこその安堵を母とした無理からぬ反応だ。
前王オムドリア三世の崩御を受け、白獅子公あるいは黒獅子公と呼ばれたふたりの公爵の覇権争いに始まった内戦の中、平民出身の名もない騎士でありながら異例の出世を重ね、今の地位にまでたどり着いたこの青年が誰も知らぬ間に地に伏しているなど、いったい誰に想像することができただろう? 彼を彩る英雄譚はイヴァリースに暮らす者の中にまたたく間に広まり、今や知らぬ者などいないだろうが、こういう事態を想像した者がその中にいるとは到底思えなかった。それほどに起こり得ない事態が、今、騎士たちの目の前には展開されている。
「すぐに薬師を呼べッ。心得のある者は――」
最初に声を上げた騎士が後方に向かって大声を上げるのとほとんど同時に英雄王の側にしゃがみ込んだ騎士は、無言のまま呼吸を確かめ、頚動脈を探った。後方から数人の騎士たちが駆け寄ってくる。皆、この若き英雄王がふらりと姿を消すことなど日常茶飯事だと安堵しながら彼を探していた者ばかりだった。このような事態を想定する者がほとんどいなかったのは、実に彼自身の騎士としての強さを信頼すればこそだ。いつ何時、ディリータを狙う刺客が姿を現したとしても、彼が地に伏すなどありうべきことではなかった。何しろ相手は、己の腕を武器に諸公の信頼を得、内戦時には王位継承者として総大将に立たされた王女に忠実な騎士として仕え、果てはその夫となることによってイヴァリースに君臨したほどの男だ。戯れ半分に彼に剣を挑まれた騎士たちが全力をもってしても誰ひとり敵わなかったこの若き王を襲うなど、いったい誰に可能だというのだろう。
「大丈夫だ、お命に別状はない……」
ややあって険しい表情のまま騎士がつぶやくと、誰かが安堵のため息をついた。
「オヴェリア様は軽傷だ。とは言え、毒が使われていないとも限らん。医術を得手とする者で当座の手当てを、手の空いた者は辺りを――」
立ち上がった騎士は同僚の顔をちらりと見やってから淡々と言ったが、途中で不意にせりふを切った。表情がぴくりと動き、視線は、訪れる者がほとんどいなくなって久しい教会の古びた石壁を伝っていく。
「……ブライアン、後は任せた!」
石壁の端に視線を固定させて間もなく、すぐ隣の同僚の名を呼んで体をひねると、騎士は向き直りざまに同僚の腕を叩いて大地を蹴った。ブライアンと呼ばれた騎士は狼狽し、駆け出した騎士の背に向かって声を上げる。
「どこへ行く、クロウ!」
呼びかけた相手は、おそらくブライアンの反応など気にとめてもいなかったのだろう。返事はなく、ブライアンは舌を打って左手を向いた。騎士たちは手早く倒れたふたりの手当てを始めている。
唇を噛むと、ブライアンは意を決してその場に背を向けた。先頭に立ってこの場所にたどり着いた同僚は、自分も含めこの場にいる者すべてが見落とした何かに気づいたのだろうか?
「ブライアン、どうした?」
ブライアンが歩を進めかけた時、ちょうど顔を上げた騎士が眉をひそめて問うた。ブライアンは肩でため息をつき、騎士を振り返る。
「分からん。分からんが、クロフォードを追う。後は任せた」
いささか無責任に言い捨てると、すでにいくらか距離を稼いだに違いない同僚を追うため、ブライアンは返事も待たずにその場を駆け出した。クロフォードの姿は石壁の向こうに消えたが、このあたりの森は木が少なく、見通しは悪くはない。すぐに追いつくことができるだろう。
ブライアンのせりふを飲み込むのに多少の時間を要したのだろう、呆気にとられた騎士がしばらく後に側の騎士の肩を叩くと、相手は小うるさげに顔を上げた。クロフォードとブライアンの会話は耳に入っていたが、真意の知れぬ行動に関わっている場合ではない、とその表情には書かれているようだ。
「放っておけ。野兎でも追ったんだろう」
忌々しげに吐き捨てると騎士はすぐに視線を落とした。ディリータの即位と同時に新たに編成された新王直属の近衛騎士団には若い者が多い。そのほとんどはディリータの直接の指名を受けた者で、当然ながら彼らに対するディリータの信頼は厚いわけだが、これは指名によらずこの騎士団に配属された者にとっては実におもしろくない話であった。乱世を鎮めた英雄王、イヴァリースの未来を担う若き君主としてのディリータは尊敬に値するが、だからと言ってその人選を全面的に信頼するなど馬鹿らしい。
「そんなことより辺りを捜索して何か手がかりになるようなものを探せ。獲物は持ち去ったとしても、何かは残されているはずだ」
南天騎士団の中でも古株であり、かつて連隊副隊長を任せられた身であったことから近衛騎士団に編入されたこの騎士にとっては、クロフォードやブライアンのような若い騎士の言動など時には腹立たしいものでしかなかった。後で顔を見たら問い質す必要があるだろう。どういうつもりかは知らないが、こうした非常時に周囲の了解もなく手前勝手な行動をとるのであれば、そうした者は相応の処分を受けるべきだ。
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