PIETA 第一章
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何かの建物の一部に違いないと思った石の壁は、ずいぶん長い間放置されていたものらしく、あたり一帯に人の気配はなかった。空気は静かで、何故だか郷愁を誘われる。
かつてわたしは、ここか、さもなくばここにひどく似通った場所に己の在り処を定めていたのだろう。女騎士はそう直感し、触れればひやりと冷たいだけの石の壁に触れ、壁伝いに歩を続けた。草をかき分け、道なき道を行くことは少しも苦にならない。そんなことは考えもしなかったし、それに、どちらに向かって歩こうかなどということも女騎士は考えなかった。ただ足の向くままに歩いていくだけだ。
そうして草の中を歩むうちに、つんと鼻腔を刺激する匂いがあることに気づいて女騎士はほんの一時歩みを止め、すぐに再開した。この匂いを知っている。頭の奥の方からそういう声が聞こえたような気がした。
匂いに気づいて間もなく、石の壁が途切れた。それに次いで草は地面にひざまずき、女騎士の目の前には広場が開ける。
人の手を離れて長い建物の、どうやら正面に出たらしかった。少し離れた場所にある門が建物の向く方向を教えてくれている。
そのように意図して建てられたものだったのかどうか、森の中にぽつんと建つ廃墟は、どこかしら厳かな雰囲気を有していた。何か特定のものを囲む空気というものは、ほとんどの場合長い時間をかけて培われるものだ。だとすればここは、多くの人々に神聖な場所として心を寄せられた建物だったのだろう――教会、神殿、あるいは修道院のたぐいか。
緩慢としたしぐさであたりを見回すうちに、広場の建物寄りにふたつの人影があることに女騎士は気がついた。人影はふたつとも、背の低い草の中に伏している。女騎士はさして驚きもしなかった。嗅覚を刺激するこの匂いの出所がこの広場であることと、そして匂いの正体が何であったかは、いまや女騎士にははっきりと知れたことだったからだ。血煙と縁遠い生活をしていた者には、この感覚は分かるまい。
草の合間を抜け、女騎士が側に寄っても、大地に伏したふたりはぴくりとも動かなかった。だが、生気はある。ともに致命傷は負っていない。ほとんどは勘だが、そうという確信があった。
女騎士は手前の人影、金髪の女の側に膝をつくと、草の上の血痕にそっと触れた。それからはたと気づいて小手と革の手袋を外し、改めてべっとりとした血液を指ですくう。予想どおりだ、まだ温かい。
倒れたふたりの上に女騎士はするりと視線を滑らせた。女騎士の位置から斜め左方に倒れているのは上背のある男で、そちらも怪我をしていることは間違いない。双方、上等の衣類を身につけており、相当の身分であることがうかがわれた。そして状況から判断するに、おそらくは自分と縁遠からぬ相手であろうことも。
女の周囲には、もともとは花束であったろう真っ赤な薔薇が散らばっていた。そのうちのほとんどは男のものか女のものか分からぬ血に汚れ、一部の花びらにいたっては大地の上に凝縮した血液のようにさえ見える。
赤い薔薇が象徴するものは、他に変えがたい熱愛だったか。だとすればこの場に散らばる花びらは、真摯なものを裏切る屈折した愛情の象徴に違いない。そう言えば、何とかという詩人が赤い薔薇を他に変えがたい憎悪の象徴になぞらえたことがあった。そういう赤は己を見失ってどす黒く、だが他者を拒絶するその姿の真意を知りさえすれば、それはひどく哀切な道化に見えてくるとも。
力なく大地に落ちた金髪の女の手をそっととると、女騎士は無言で口付け、失われてゆく生命の力をふたたび個体に宿すための魔法を唱え始めた。傷の手当ては必要なかろう。じきに彼らに関係する者たちがやって来て、この役割を譲り渡すことができるだろうから。
記憶の糸をたどるまでもなく呪文を詠唱することができたのは幸いだった。詩人の件といい魔法の件といい、どうやら、そのように意識して何かを思い出すことはできなくても、自然に思い出せるものもあるらしい。身に染みついた感覚、か。あるいは経験から得た勘。
そう言えば、忘れ病というものは本来、己の名や過去は忘れても使うことばを忘れることはないと聞いたことがあるな。女騎士は内心につぶやき、目を細めた。その後で再度視線を他方の男に移し、ふたりの間で光を反射する刃があることに気がついた。なるほど、獲物はあの短剣か。気を失ったままの女の足下を迂回し、女騎士はふたりの間に膝をついて短剣を手にする。
女性用の、おそらくは護身用の武器だが、殺傷能力は十分なように思われた。これなら、戦い方を知っている者がそのように意図して使いさえすれば、他者に致命傷を与えることはたやすいはずだ。
ふう、と肩でため息をつき、女騎士は倒れたふたりの男女を見比べた。薔薇の花束はあの青年から彼女への贈り物だったのだろうか。瞳に憂いを宿し、女騎士は瞼を伏せる。
時を置かずして、目頭が熱くなった。理由など分からない。涙が頬を伝うまでにたいした時間はかからなかった。こんなものを見るためにわたしはここを訪れたのではない。こんな結末のためにすべてを捨てて苛酷な旅に赴いたのではない――ああ。
遠くから、誰かの名を呼ぶ声が聞こえた。声は複数の男のものだ。意識が聴覚に集中すると同時に女騎士の思考は大気の中に分散し、閃きそうだった記憶の断片はふたたび闇の中に姿を消した。だがそれに固執している暇はなさそうだ。声は徐々に、こちらへ近づいているようだった。
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