PIETA 第一章

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 浮沈を繰り返す意識に遠くから話しかける葉ずれに混じって、無数の人々が交し合うざわめきが聞こえる。
 ――欲張りな人……。
 光のない真空に声が響いた。ざわめきの中、内容をはっきりと聞き取ることのできた声はそれひとつだ。
 ――……をいただかなくてはね……。
 駄目だ。聞こえない。
 女騎士は闇の中で苛立ちを噛みしめた。ざわめきが邪魔をするのか、この闇空にある限り、思うように五感を働かせることは困難らしい。たとえば瞼を開いてみたところで視界には何の変化もなかったし、指先を動かそうと思ったところで触れるものは何もなかった。己の所在さえ曖昧なこの空間は、あるいは意識の最果てなのかもしれない。現実とまるで区別のつかない夢をみることは度々あれど、このように思い通りにならない、そしてこのように長い夢に落ちた覚えはない。
 ――筋違いも甚だしい――間違えてはならない……。
 再び、声が降ってきた。今度の声はいささか太い。鼓膜にわんわんと共鳴する音は聴覚を鈍らせ、闇の中に独立しかけた意識をいとも簡単に分解してしまう。
 ――恨むなら、自分か神様にしてくれ。
 ――男の声!
 声の末尾に己の声が重なって、途端に世界が変容を迎えた気がした。気がついた時には、女騎士は草むらの上に飛び起きていた。
 覚醒を意識したとたん、激しい眩暈に襲われる。眉間に皺を寄せ、女騎士は額に左手を当てた。世界のすべてが揺れているようだ。
 意識の中枢は現実を否定するようにぼんやりとしたままだった。そのままの姿勢でいくらかの時間が過ぎ、女騎士が上半身を支えている右腕の存在に気づいた頃、意識はようやく焦点を結ぶやり方を思い出してくれたようだ。
 女騎士は肩を使って大きく息を吐き出した。深呼吸と言うよりはため息と言った方が近い。脱力感がやってきて、女騎士は勢いよく草むらの上に倒れ込んだ。瞼の上に左腕を掲げ、先ほどまで己がいたはずの闇を意識の中に探す。そうする一方で、それが決して見つけることのできない場所であることを女騎士は認識してもいた。あれは、あの空間はそうと意識してたどり着くことのできる場所ではない。自害でも試みれば、あるいは迷い込めるかもしれないが、そのような危険を冒す必要も理由も女騎士にはない。ないはずだ。
 ややあって、今度は意識的に長く息を吐き出すと、左腕をどけて女騎士はうっすらと目を開いた。新緑の合間の高い隙間から陽光が降っている。どこかの森の中に迷い込みでもしたのだろうか。
 そう考えてから、女騎士ははたと思考を止めた。続いて己の脳裏を流れた疑問を反芻する。どこかの森の中に迷い込みでもしたのだろうか、だと?
 女騎士は目を見開き、一時、呼吸さえも止めた。いったいどうして、自分はこのような場所にいるのか? この場所でいったい何があって、わたしはあの長い夢の中をさまようはめになったというのか?
 ……あの長い夢の中?
 ゆっくりと上半身を起こしながら、女騎士は自問した。自分は夢をみていたのか、否、あれこそがわたしの世界のすべてではなかったか? 何故ならここにあるのは我が身ひとつだけで、他には何もない。何も見当たらない。
 そうだ。何か、とても大切なことを聞いたはず。
 呆然と見開かれた目は、自然に下方へと落ちた。額に触れる指先が、左腕が木々の間を縫う陽光を遮り、使い古された鎧の上に複雑な影を作る。
 何故だ? 女騎士は再び自問した。何故、すべての理由が分からない?
 しばらく後、大きく開いた眼に渇きを感じて女騎士は瞬く。視界の変化は、一寸の光もないあの闇から現実への変容とは比べものにならないほど、わずかだ。
 次いで固く瞼を閉じ、額に手を押し付けたままで顔を伏せ、女騎士は声にならないうめきを漏らした。こんなことになろうとは。
 額に当てた手はいつの間にか右手とそろって顔を覆い、鎮痛な表情を隠す役割を果たしてくれた。しばらくすると、喉の奥、否、腹の底から笑いがこみ上げてきた。なんということだ。なんということだ! このわたしが忘れ病だと?
 哄笑の準備のために大きく息を吸い込んだものの、肺にためられた空気が当初の目的を果たすことはなかった。唇を噛み、女騎士は勢いよく草の上に倒れ込んだ。体の右側を下にし、顔を隠して丸まる。何故という心中の疑問に応えるものはいなかった。
 そのままどれほどの時間が流れたろう。ほんの数秒、数分、数時間、否、数日あるいは数ヶ月? 知らず知らず陥ったまどろみの中の己を自覚するのと同時に、女騎士は瞼を開いた。体は横たわったままだ。
 視界の先、数歩離れているだけの場所に剣の柄が落ちている。けだるそうに身を起こすと、女騎士は四つん這いになって移動し、そのすぐ側までたどり着いた。柄を見る限り、その剣は女が持つには大振りの剣だったに違いない。剣身は根元から折れていたが、周囲にそれらしき残骸は見当たらなかった。草の上にぺたんと座り込んだ姿勢のまま、右手に柄を握って目の高さに持ち上げる。なんという軽さ。
 ほとんど根元から剣身を失っているのだから、重量がないことなど一目で知れたことだったが、いざ己の感覚をもってそれを知った女騎士は言いようのない脱力感に襲われた。このままでは鞘にもおとなしく収まるまいな。声もなく苦い笑みを浮かべて、女騎士は腰帯の鞘に目をやり、到底使いものにならない剣を収め、同じ腰帯に巻いてあった布を解いて剣と鞘を結びつける。
 そうしてふらりと立ち上がると、足下をすくうように渇いた風が吹いていった。風の姿を追うように視線を下げたところで、見えるものは草とその合間の大地だけだ。ああ――だが、目に見えるものばかりがすべてではない。この手の内に、己の内にあるものだけがすべてではない……。
 ざっ、と音を立てて左足を引き、空を仰ぐと、木々の間から漏れる光は女騎士を肯定するでも否定するでもなく草の上に注いでいた。光はいつでも、すべてに対して公平だ。それなのに。
 自嘲の笑みを浮かべると、女騎士は辺りを見回し、他に落し物がないことを確認してから歩き出した。どこへ行くというあてはなくとも、ここにこのままとどまっていたところでしかたがないということだけは分かっている。
 幸い、視界の先には蔦に覆われた背の高い石の壁が見えていた。

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