PIETA 第一章

page3

 沈黙はそれほど長くはなかったが、時間の感覚というものは得てして主観的なものだ。机の縁に腰かけたまま動かないバルマウフラがぴくりと動いた時、出口の見当たらなかった長い夢から覚めたような気分でオーランは瞬いた。バルマウフラは無言のまま机上から降り、扉に向かって足を踏み出す。
それは、何者かの手によって扉が主を呼ぶのとほとんど同時の出来事だった。
 屋敷の主が誰何するより早く、バルマウフラは扉を手前に引いた。草としての半生がそうさせるのだろう、扉に対しては背中を向け、利き手は使わない。
「失礼いたします」
 開いた扉の向こうにいたのは、年若い騎士だった。オーランの姿を視界に収めると、騎士は口を開きかけるが、扉の側にバルマウフラの姿を見つけたとたん、表情を固めてしまう。手を触れずに扉を開く魔法などそこここに転がっているはずもないのに、扉を開けた相手がオーランではなかったことを若い騎士が認識したのはこの時に違いなかった。気さくな主に対する無警戒な態度から緊張への明確な変化は、他人の表情に敏感な者でなくとも見逃すことはなかっただろう。
「あの……国王陛下をご存じありませんか。先ほどからお姿が見当たらないのだそうで……」
「王妃は?」
 遠慮がちな質問に答える代わりに聞き返したのはバルマウフラだった。騎士の視線がバルマウフラを超えて届いたのを受けて、オーランは額に手を当てる。短い質問に塗り込められたバルマウフラの苛立ちは、飛び入りの騎士にも伝わったに違いない。
「王も王妃も行方不明なら、そろっていつもの場所でしょう。さっさと探しにお行き」
 バルマウフラのぞんざいな口調に、オーランは思わず息を止めた。続けて内心につぶやいたのは、まごついた騎士への非難ではなく己への愚痴だ。彼女のように勘の鋭い相手に何を隠しても無駄だと分かっていて、何故おれは隠しごとをせずにはいられないのか……。
「そうそう……ついでに、その手にしているものを置いていきなさい?」
 肩越しにちらりとオーランを振り返って、バルマウフラは何でもないようなふうにさらりと言ってのけた。唇の端に笑みを張りつけたバルマウフラと視線が合う直前、オーランは思わず目をそらしてしまう。
「あ、いえ、これは……」
 狼狽した騎士の声は、明らかにオーランの救いを求めていた。
「大丈夫だ。手間をかけたな」
 寛容な声音を作ろうと努力はしてみたものの、オーランの努力は徒労に終わったようだ。そのことが伝わったのかどうか、無言の要求を乗せて掌を差し出したバルマウフラに持参した書簡を手渡すと、騎士は面目なさそうな顔で頭を下げ、踵を返した。
 扉を閉める直前、バルマウフラがちらりと通路に視線を向けたのは、騎士が立ち聞きなどせずに遠ざかっていくのを確認したのだろう。
「部下に命じておきなさいな。どうせ言うなら、もう少しましな嘘を言うように」
 後ろ手に扉を閉じたバルマウフラの辛辣な厭味に、オーランはもごもごと口を動かしたが、声に出しては何も言わなかった。正確には、何も言えなかったと言うべきかもしれない。
「城内じゃあるまいし、ディリータがあなたを訪ねているなら、ここまで来ないうちに誰かには消息が聞けるはずでしょう。第一、あの人が花束抱えて男の屋敷を目指すような男に見えるのかしら? 気色悪い」
「……花束?」
「お姫様に渡すんでしょ! 他に何の目的があるって言うのよ」
 恐る恐る向けられた問いに早口で答えながら、バルマウフラはつかつかと机に歩み寄った。その勢いのまま、手にした書簡を机上に叩きつける。
「そんなことはどうだっていいから、さっさと開けたら?」
 剣幕にたじろいで、オーランは曖昧な笑みを浮かべた。上目遣いにバルマウフラを見やるが、態度を和らげてくれそうにはない。
 オーランが腹をくくるまでの時間は短かった。
 こういう時に立場を改め、状況を打破するために己を殺すことができるのが、バルマウフラの見るところのオーランの柔軟さであり一種の特技だ。喉の奥で咳払いをすると、書簡を手にし、オーランは唇の両端を吊り上げて自嘲の笑みを浮かべる。
「知っていたんだな……」
 ため息交じりにつぶやくと、バルマウフラは胸の前に腕を組んだ。
「あなたが何を考えているかということ以外なら、おおよそはね」
 どうやらバルマウフラには、苛立ちを隠す気はないらしい。苛立ちの理由に心当たりがある以上、そういうバルマウフラの態度を非難するような真似はすまいとオーランは思った。
 何より、バルマウフラのこうした率直な感情表現は親密な間柄に限られたものだ。知り合った頃の印象からは到底考えられなかった好意的な変化と言えよう。有能な女性であればこそ、己を殺す術に長けたバルマウフラにとり、感情をさらけ出せるような相手はそう多くはないはずだった。バルマウフラがこの屋敷に暮らすようになってからの半年というもの、その確信は深まる一方だ。むき出しの警戒心は、時に非力な己を守る鉄壁に代わる。攻撃は最大の防御とはよく言ったものだと思わずにはいられない。
 角をつまんだ書簡の縁を肩に当て、効率のよい説明を探してオーランは沈黙した。バルマウフラが自ら口にしたとおり、オーランが秘密にしてきたはずの事柄のうちのいくつかは筒抜けなのだろう。それを承知の上で最初からすべてを説明するべきか、あるいは――。
 沈黙の意味を察したのだろう、しばらくするとバルマウフラはふっと視線の向きを変えた。それに気づいたオーランの表情を笑みがよぎる。
いすから腰を上げ、バルマウフラの視線の中央を横切るようにしてオーランは露台に向かった。指先は書簡の角をつまんだままだ。初夏の風は肌と書簡をかすめては部屋の中に消えていく。
「食事をすませたら、改めて部屋へ来てくれないか。ここではなくて」
 背中に投げかけられる視線に対して、淡々とオーランは応えた。視線はいまや棘を含まず、ただ背に注がれているだけに過ぎない。
 返事はなく、応えの代わりに運ばれてきたのは背後でくるりと身のひるがえされる気配と歩み去る気配、それに続く扉が開閉する音だけだった。扉が閉まるとすぐ、オーランは消えたバルマウフラの姿を追うように肩越しに振り向く。当然ながら振り向いた先には誰の姿もなく、扉は秘密を守る貝殻のようにしっかりと閉じていた。
 息を吸い、肩を揺らして大きくため息をつくと、オーランは書簡を目の高さに持ち上げた。初夏の陽光に透かしたところで、中身が溶けて消えてくれるはずもない。
 書簡に押された封蝋からは、鷹と剣を象った家紋を読み取ることができた。たとえばこの屋敷に住まう者の中で、ごく平均的な情報を持つ者にならそれがイヴァリースに拠を置く家のものではないということは明らかだろうに、送り主はそのことを承知しているのかどうか――否、おそらくは承知の上で、わざとこういうやり方を選んだに違いない。そういう性格だと判断できる程度には親交のある相手だ。目的のためには手段を選ばないところは、どうかするとディリータに少し似ているかもしれない。
「まったく、話が違うじゃないか……」
 己の他には人の気配のない部屋に背を向けたまま、オーランはため息交じりにつぶやいた。耳をそばだてる者がいないという確信があるからこそ漏らすことのできたつぶやきは、オーランの思惑どおり初夏の穏やかな風の隙間に滑り込んで消えていく。
 さて現実の方はいったいどうなることやら、というつぶやきは胸中に閉じ込めて、オーランは書簡の縁で肩を叩いた。必要外の想像や予測など、行動を定める上では邪魔にしかならないことをオーランは承知している。だから最終的にはいつだって、すべて物事は然るべき結末に落ち着くさ、と己に言い聞かせるしかないのだった。老練な軍師顔負けの戦略家と呼ばれたおれの心中がそんなものだと知れば、信奉者の何割かは呆気にとられるかもしれない。
 そういう事態にふと思いを馳せると、オーランは肩を震わせて笑った。バルマウフラが目撃したなら、気味が悪いと眉をひそめられたかもしれない。だが、親密な相手からの露骨な厭味もたまには悪くない。人が言うほどおれは堅物じゃない。
 くるりと踵を返すと机に戻り、オーランは書簡を開封した。内容はほぼ想像どおりのものだったので、たいして驚きもしなかった。これからしばらくの間、身の回りが小うるさくなるかな、とつぶやいて頭の後ろで指を組む。
 当面、考える必要があるのは、このことに関して機嫌を損ねるに違いないバルマウフラへの言い訳だけだった。

Copyright(C)2004−2005 こんぐ