PIETA 第一章

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 天幕の中には、ほのかに甘い香りが満ちていた。八角錐型の天幕の全体を照らすことができるよう、蝋燭を源とする小さな灯りが天幕の中心に吊り下げられている。天幕の入り口は縄で持ち上げられた状態で固定され、その付近では焚き火と蝋燭の灯りが混じって奇妙な陰影を作り出していた。
「困ったわね」
 焚き火のはぜる音が聞こえる他は、しんと静まっていた場にもたらされたのは、この一団の主たる少女、イリーナ・オルドのささやくような声だ。
「あなたが前イヴァリース王家、アトカーシャ家に関係していることは――わたしが勝手にそうと判断していただけのようね。聖近衛騎士団が解散されたことは聞いていたもの、あなたの部隊が旗章を継いだだけだと思っていたのだけれど」
 硬い織物の上に座し、畳んだ足の上に両手をそっと置いたイリーナは、困惑に彩られた表情のままで瞬いた。顔の下半分を隠していた薄絹は天幕に入って間もなく外され、己の意思でもってイリーナが表情を作っているのでなければ、その表情を隠すものは何もない。
 イリーナの視線が示した先、目の前に置いた剣身を失った柄を見下ろしたまま、女騎士は沈黙していた。柄の先端には三枚の葉を模したような印があり、それはルザリア聖近衛騎士団と呼ばれたアトカーシャ王家直属の騎士団の旗章だとイリーナは言う。
 剣の柄の側にはもう一本、その旗章と酷似した印の入った短剣が並べられている。女騎士の手に握られていたその短剣は、イリーナづきの女官と紹介された女の手によって血糊を落とされ、複数の目の観察の対象となっていた。
「追われる身だったことは確かだな、あんた。奴らが言った悪い噂が真実かどうかは別にして」
 天幕の外から、ぶっきらぼうな男の声が届く。
「隠れ方が身に染みついているんだ、とっさの機転が利くし状況を無駄にしない。おそらくはああやって、何度となく追っ手の目をやり過ごしたことがあるはずだ」
 眉間に皺を寄せて瞬き、女騎士は両手で額を覆った。頼るべきものが何ひとつとしてないこの状況で、わずかに得ることのできた情報は女騎士をいたずらに混乱させる。
 わたしはいったい何者だったのだ、と女騎士は自問した。もちろん、答えが出るはずはない。平静を保つためには、追っ手であった騎士が残した情報とイリーナの持つ情報から導き出される答えを否定しなくてはならなかった。ルザリア聖近衛騎士団に所属していた高潔な女騎士、三年前に行方をくらました後、よからぬ風評を立てられた者。追っ手から身を隠すことに慣れた、追われる身であった逃亡者。血に染まった短剣、倒れていた身なりのいい女性、そして――意識を手放していた、国王。
「あなたの手には、その短剣は馴染まないわね……」
 心臓が飛び上がった。
 弾かれたように顔を上げると、短剣からそっと目を上げたイリーナと目が合う。唇の両端を吊り上げて笑み、イリーナは再び短剣に目を落とした。不安に満ちた眼差しで、女騎士はイリーナの視線を追って瞬く。
「国王陛下、と言ったのね……?」
 視線だけを上げ、イリーナはゆっくりと念を押した。直視された女騎士は時間をかけて何度か瞬いた後、うつむいて唇を噛む。
「……はい。確かに、そのように……」
 返事の代わりに、わたしではありません、と叫んでしまいたかった。胸中を暗雲が覆い、身の潔白を証明することさえできない己に口惜しさと恐れが募る。わたしはいったい何者なのだ。わたしはいったい、あの場所で何をしていたのだ。
「とんでもないところに出くわしましたね、公女? あの連中が間抜けで助かったのは、何もその女ひとりではない。あなたご自身もですよ」
 ルークの厭味にイリーナは沈黙を返した。星の動きを読む力とはまったくたいしたものですね、とよほど言ってやろうかと思ったが、そのあたりで口をつぐむことにする。余計なことに首を突っ込まず、この女騎士を突き出していればそれですんだことなのに、というせりふも胸の中にとどめておいた。見ものはこれからだ。思わぬ事態に、さて、この小娘はどう打って出るか。
「ラウェンナ」
 沈黙を破って、イリーナは短く女の名を呼んだ。その名の持ち主らしい女は返事の代わりに顔を上げ、ゆっくりとうなずく。
「荷の中に、革をなめした長衣があったわね、それにヘナの粉。マイク! 今すぐお湯を沸かしてちょうだい。人肌より少し熱いくらいにね」
 途中からは天幕の外に向かって声を張り上げ、イリーナはさっと立ち上がって女騎士の側に寄った。いったい何事かと目を見開く女騎士ににこりとほほえみかけ、背後に回る。
 ラウェンナと呼んだ女の手から櫛を受け取ると、イリーナは女騎士の黄金の髪をすきにかかった。髪を痛めぬよう注意を払いながら、髪の乱れを整え、緩く編まれた髪を解いていく。
「髪を染めるわ、あなたは男装なさい。喉は隠して、それから……」
 天幕から聞こえてくる声にルークは片方の眉を上げ、ふん、と息を吐いた。右手では、マイクと呼ばれた軽装の男が焚き火を利用して湯を沸かしている。見張りの交代のため、早々に木にもたれて仮眠している騎士のひとりが薄く目を開けたのが見えた。
「発音が問題ね。さっきの騎士たちが気づいていたかどうかは知らないけれど、イヴァリースに暮らす者とわたしたちとでは、同じ共通語を話していても発音が微妙に違うのよ。そうね、彼らの発音の方が少し母音が強いかしら?」
 イリーナが彼らと呼びかけた中には、むろん女騎士も含まれているのだろう。ことばの発音は時に、使用者の出身地を語るまたとない資料になる。大陸の共通語として使われているこのことばは、イヴァリースの場合は海を挟んだロマンダからではなく、陸続きに接するもうひとつの隣国オルダリーアから伝わったものだが、マルヴェリの者が話す共通語とは確かに微妙に発音が違う。
 イヴァリースの国教であり、本拠地をこの国内に有するグレバドス教ミュロンド派の教えが海を越えてマルヴェリに伝わったこととは対照的だな、とルークは胸の中につぶやいた。陸路を経て伝わったグレバドス教の他派の教会ならロマンダ国内に点在するが、ミュロンド派の教会を領土内に有するのはマルヴェリだけだ。もっともあの御仁が教会の教えに従順であるとは思えないがね、とルークはイリーナの父親であるオルド公爵の顔を思い浮かべた。
「簡単な方法をとりましょう、あなたは口が利けないことにするの」
 天幕の入り口から漏れるイリーナの声にはよどみがない。
「このイヴァリースとは海を隔てた我が領土、マルヴェリで育った生粋の騎士。それがあなたよ、堂々としていらっしゃい。いいこと、嘘は上手につかなくてはだめよ。こつはほんの少しの真実を混ぜること――ね。この剣柄と短剣を預かる代わりに、あなたに剣と名前を与えるわ」
 定められた脚本を読むようような口ぶりに、天幕のこちらでルークは肩をすくめた。木々の合間に見えるあの星空が彼女の脚本か。そこにはきっと、彼女を生涯の主君と定めた者の死さえも縫いとめられていて、だからこそイリーナは他者の死を悼もうとしないのだろう――。
「そうね――アリオス。あなたにアリオスという名を与えます。わたしの忠実な騎士アリオス……」
 ルークは動きを止めた。騎士アリオス。マルヴェリに暮らす者ならば誰もが知る、イリーナの忠実な騎士の名前。
 湯を沸かすかたわらで、ルークと同じようにイリーナの声を聞いていたのだろう。マイクの視線がこちらを向いたのが分かった。フ、と短く息を吐き出すと、ルークは何事もなかったような顔で立ち上がり、砂埃を払う。マイクの持つ鍋からは、とうに湯気が立っていた。無言のままその手から鍋を受け取り、足早に天幕へと運ぶ。
「湯が沸きましたよ、公女、それにアリオス殿? 少し熱くなりすぎたかな」
 硬い表情を、していたのだろうか。天幕をのぞいた時、アリオスという名を与えた女騎士の前に膝をついていたイリーナの瞳を影がよぎったような気がした。かがめた腰をすぐに起こし、ルークは天幕の入り口からさっと遠ざかる。
 声を立てず、ただ唇だけを笑みの形に変えてイリーナは立ち上がった。アリオスという名と口の利けない男という芝居を受け入れたものかどうか、無言のままイリーナの姿を視線で追う女騎士の前に戻った時には、イリーナの表情は消えている。
 先ほどヘナの粉と呼んだものなのだろう、ラウェンナが紙に乗せて差し出したくすんだ緑色の粉を小さな器に入れ、イリーナはその上に湯を注ぐ。
「爪の手入れや髪を染めるのにわたしたちがいつも使う染料よ」
不思議なものを見るような顔をしている女騎士を見やり、イリーナは簡単に効用を説明した。粉が溶け、糊状になるまでゆっくりと混ぜる。
「髪の色が変われば、印象はずいぶんと変わるわ。あとは化粧で顔の印象を変えて、喉も覆って。最後に長衣で全身を隠してしまいましょう」
 にこりともせず淡々と言うイリーナの顔を、女騎士は遠慮がちに見つめていた。つい先ほどまでは余裕たっぷりといったふうで、女騎士を変装させるという思いつきを楽しんでいるようにさえ見えたのに、いったい何がイリーナの表情を奪っていったのだろう。これまでのやりとりを聞いている限り、ルークが余分な一言をつけ足したり厭味を混ぜたりするのは珍しいことではないようだが、イリーナの表情が変わったのはルークが鍋を届けてからだ。
 普段から使うというだけあって、染料を扱うイリーナのしぐさは手馴れたもののように見えた。途中、ラウェンナが差し出した別の粉を混ぜ込むと、あたりにふわりと香気が漂う。女騎士はちらりとラウェンナの表情をうかがうが、ラウェンナは顔を薄絹で隠したままなので、表情を読むことは難しかった。
 何人もの部下を従えたこの美しい少女の心に影を落とすもの、それはいったい何なのだろう。己のことを一時忘れ、女騎士は同情にかられた。公爵家の者であると名乗ったこの高貴な人は、それ故に他者とは分かつことのできぬ寂寥の念を抱えているのだろうか。誰にもそうと悟られぬようにあえて明るく見せかけ、個人的な感情に表情を曇らせることがないよう心がけ――たとえそのように育てられたとしても、望んでそうしているわけではないのだ、それは並々ならぬ負担に違いない。
 染料の状態を確かめるかたわら、ふと上げられたイリーナの顔に、誰かの顔が重なったような気がした。まただ、と女騎士は胸中につぶやく。ぱちぱちと目を瞬くうちに幻影は消え、その正体を突き止めることはできなかった。何かを思い出せそうな気がしたのに。
「冷ましてちょうだい、ラウェンナ。それとも自然に任せた方がいいかしら?」
 差し出された器を受け取ると、ラウェンナは軽く首を振って小声で呪の詠唱を始めた。ことばを使った返事がないことに特に気を悪くしたようすもなく、イリーナは女騎士の背後に回って再び髪をすきにかかる。
 ――自分でできますよ。記憶はなくしても、手指をなくしたわけじゃない。
 そう思いはしたが、声を喉の外に押し出すことはできなかった。無言のまま瞼を下げ、女騎士は唇を舐める。
「きれいな髪ね。染料を落とすのは、明日の早朝にしましょう。近くに小川があるの」
 背後からかけられた声にぱちぱちと瞬いた後、女騎士はゆっくりとうなずき、はい、と小声で応えた。声は少し、かすれていたような気がした。

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