PIETA 序章

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 琥珀色の液体の中を、不恰好な氷が泳いでいる。
 薄暗い灯を反射して生み出される光と影が、複雑怪奇な現世の象徴のようだ。
 グラスの縁を上からつかむようにして持ち上げて、顔の前で振る。
 片膝を椅子の上に立て、肘をついているので、姿勢は悪い。
 手を動かすたびに、からん、からんとグラスにあたって氷は音を立てた。
 心地のよい、音だ。
 酒は、気の合った者同士、気分よく飲むに限る。
 グラスを持ち上げたまま、視線だけを隣に向けると、飲み始めた時とたいして変わらない姿勢で、アグリアスは杯を開けていた。
 正式な騎士ではなくなって、もう何年も経つはずなのに、彼女の中にはいまだに、騎士としての教えが生きているのか、それとも生来が、そういう性格なのか。
 酒量を守り、泥酔はしない。限界を人に悟らせず、さりげなく杯を下げる。当然、悪酔いをして、絡んでくることもない。
 知り合ったばかりの頃には、いささか堅物すぎると思っていたが、最近では、それさえもひとつの長所だと考えてしまう自分がいる。
 比較すれば明らかに、自分の方がだらしがない。
 そんなことを考えていたら、知らぬ間に笑みが表情にこぼれていたらしい。視線に気づき、こちらを見やったアグリアスの顔が、奇妙なものを見たように歪んでいた。
「どうした……。もう酔ったか?」
 すぐに揶揄へと転じたその表情を見て、ムスタディオは今度は意図的に笑み、体を起こした。
「まさか」
 グラスを置き、椅子に体重をかけて、両腕を後方へと伸ばす。
「しばらく飲めなくなるなと、考えていただけさ」
 軽く目を見張った後、吹き出すように笑って、アグリアスは両腕を組んだ。
「そんなところだろうと思っていたよ」
 背を預けた椅子が、耳障りな音を立てる。
 椅子から伸ばした両足を交差させ、アグリアスは長く息を吐いた。
 ムスタディオからは、返事がない。
 視線だけでちらりと見やると、ムスタディオは両腕を机の上に置き、その中に顔を埋めていた。
 姿勢だけを見ると、酔いつぶれているようにも見えなくはない。
 知り合ったばかりの頃ならば、酔いつぶれた男の世話などごめんだと言って席を蹴ったものだったし、そもそも飲み交わす機会自体を避けていたものだったが、どうやら世話をさせられる心配はないということは、すぐに知れた。人前で酒に飲まれることが、いたく彼の自尊心を傷つけるらしいということが、その態度や言動から、ありありと分かったのだ。
 心理としては、分からないでもない。だがそれをムスタディオに当てはめてみた時、子供じみて感じてしまうのは何故だろう。
 年齢差のせいかも、知れない。
 椅子から背を引き剥がし、机の上に肘をついて、アグリアスは瞼を伏せた。何か考えごとをするたびに、最近ではよく、年齢に焦点を当ててしまう。
 もう一度、吹き出すようにアグリアスは笑った。今度は、かすかに自嘲の色がある。
 吐息に気づいたのか。鼻から上をのぞかせて、ムスタディオが瞬いた。
 その視線を、無言で見返す。口の端に笑みを乗せたアグリアスの表情は柔らかく、ムスタディオは二度、三度と瞬いて、それから腕を解いた。
 ムスタディオはそのまま、両腕をだらりと下に下ろして、天井を見上げ、これ見よがしにため息をつく。
 何か言おうとしているな。胸の内に、アグリアスはつぶやいた。
「……姐さん」
 ややあって、ムスタディオはぼそりとつぶやく。
 予想どおりだ。こいつの反応は、裏表がなくていい――。
 アグリアスの胸中をのぞくことができるはずもなく、ムスタディオは天井を見上げたまま、口をもごもごと動かした。
「おれ、次の戦いが終わったら……。言いたいことがある」
 呆れられることを恐れながら、その実明らかにしたくて仕方のない秘密を打ち明ける子供のような、妙に照れくさい顔をしている。
 声もなく笑って、アグリアスは前髪をかき上げた。
「そうか。わたしの方は、始まる前に言っておくよ」
 机に両手をつき、腕を伸ばす。
「へ……」
 ムスタディオの視線がこちらを向いたことを視界の端にとらえてから、アグリアスはせりふを続けた。
「その「姐さん」はやめろ。……それだけだ」
 言い終えてから、視線だけをムスタディオにくれる。
 ムスタディオの呆けた面を見ると、吹き出し笑いがこぼれた。
 酔うような量ではないが、酒が入っているせいか。口をへの字に曲げて頭をかくムスタディオを見ると、さらに笑いがこみ上げてきた。
 最近、よく笑うようになったと思う。
 そんなことを考えるのも、やはり年齢のせいだろうか?
 ひとしきり笑った後には、いつしか時間を巻き戻したように、何事もなかったような顔をしてグラスを傾ける、いったいいつから、酒の席にこれほど自然に溶け込んでいられるようになったのだろう。
 現女王オヴェリアの護衛隊長に不適とされ、騎士の任を解かれてからしばらくの間は、笑うことさえ忘れてしまっていたのに――。
 軽くかぶりを振って、アグリアスは疑問を打ち消し、グラスを空けた。
 隣では、競うように一気にグラスを空けたムスタディオが、大きく息を吐いて机に突っ伏している。
 腕を伸ばして取った酒瓶から、性懲りもなくまた酒を注いでいる……。
 倒れるまで飲むなよ、世話はしないぞと釘を刺して、アグリアスもまた、グラスに新しい酒を注ごうとする。
 その手から酒瓶を奪って、ムスタディオは酒を注いだ。
 笑って杯を受け、アグリアスは杯を返す。
 かけらほどの遠慮も見せずに杯を受けて、ムスタディオは酒を喉に流し込んだ。
 グラスを口につけたまま、視線だけでアグリアスを見やると、先ほどよりもずっと和らいだ表情でつまみを口に放り込んでいる。
 豪胆な騎士らしく、お世辞にも女らしいとは言えないが、飾り立て、行儀よく振る舞う女よりもよほど、隔たりを意識させない自然な姿のように思う。
 酒の席に甘んじて口にしたことを、妙に堅苦しく受け止められたらどうしようと思っていたが、どうやら心配はなさそうだ。
 ところで切り返されたことばは、揶揄なのか、それとも鎌かけなのか、どちらなのだろう……。
 考えてみたが、酒のせいだろうか、散漫な思考では、答えを導き出すことは至難の業だった。
 おかしなものだと、後になって思う。
 何故分かっていたのだろう。これから自分たちの赴く先が、最後の戦いの場になると。
 今までは、訪れた先々で新たな事件が展開して、行程はどこまでも続くかに思われたのに。
 理由など、思い浮かばない。
 ただ、実感だけがあった。戦いは、次で最後。
 長い坑道を通り抜け、漏れる出口の光を見つけた時のような安堵と、そこへ至るまでの障害の多さに震える体、武者震い。
 ほのかな酒の苦味が、意識を現実へと引き戻す。いつしか、口の端に笑みが浮かんでいた。
 凄絶な戦いの前の、最後の酒宴。
 最後だから。
 だから、言えたこともある。
 伸ばした手が届かないことなどありえないと、理由もないのに確信していたから。

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