座布団のある家

こんぐ / この作品は「ざぶそろ」参加作品です。

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 以前までとは違って、この年、夏休みが終わってもわたしは家には戻らなかった。戻ることができなかった……いや、戻らなかったのだ。自分の意思で。
 わたしは十一月生まれだから、祖母の家で誕生日を迎えたことはない。
 だけど、今年からはどうなるか分からなかった。少なくとも今のわたしは祖母の家から近くの公立中学校に通っていて、父は月に一度、養育費を持ってくることになっているらしい。
 そして十月、わたしが公立中学校に編入してから二度目に父がやってきた時、わたしは隣の部屋で祖母と父の話を聞いていた。
 ──あんたたちがどういう結果を出そうと覚悟はしていたつもりだったけれど、まさか、こんなことになるなんて。
 縁側に座ってお茶を飲む時とは違い、座布団の上でぴしっと背筋を伸ばした祖母の前で、父は首をうなだれていた。
 ──あんた、こんな結果のためにメグミをうちに預けていたんじゃないだろ。甲斐性なしの、ろくでなしだよ。この上、どの面下げてメグミには母親が必要だなんて言うつもりだい。
 ──そう言わないでくれよ、お母さん。俺だって、俺だってそんな。

 祖母の家での暮らしは平穏で、時間はあっという間に過ぎていく。穏やかな暮らしの中で、わたしは時々、最後に一度だけ戻った我が家のことを思い出すことがあった。
 公立中学校に編入する前に、わたしは一度だけ家に帰っていた。でも泊まったのは一晩だけで、次の日の夜には祖母の家に戻っていた。
 家に帰ったのは、母の葬儀に出席する必要があったからだ。
 家には滅多に顔を見ない親戚のおじさんやおばさんがいたけれど、ほとんど話もしなかった。お通夜の晩には皆、リビングで遅くまで話していたみたいだったけれど、わたしは早々に自分の部屋に閉じこもって眠った。部屋の床にも机にも埃が積もっていて、一晩中何かの匂いが鼻についていたし、ぐっすり眠れた気がしなかった。
 祖母の家の近くの中学校に編入手続きをとったのはもちろんその後のことで、日々はばたばたとあわただしく過ぎていった。夏休み中を祖母の家で暮らしていたわたしには、母が死んだという事実はなかなか実感できなかった。
 父が二度目に養育費を置いて帰っていったその日の午後、祖母はいつものように縁側に座布団を敷いて座っていた。いつもと違っていたのはそのすぐそばにお盆も急須もなかったことで、そのことに気づいたわたしは、お勝手場へ行ってお湯を沸かし、お茶を入れた。食後のお茶を入れるのはわたしの仕事になっていたから、たまたまその回数が一回増えただけのことだ。
 縁側から見える山々はすでに色づきかかっていて、父母と暮らす家の周辺よりも紅葉が一月ほども早いことにわたしは驚いた。
「おばあちゃん、お茶」
 背後から声をかけると、祖母はわずかに時間を置いて振り向いた。
「メグちゃんかい。ありがとうね」
 この家には祖母とわたししかいないのに、祖母は時々、そこにいるのがわたしであることを確認するようにわたしの名前を呼ぶ。
 祖母の隣に膝をつき、急須からお茶を注ぐ時、少しだけ手が震えてお茶をこぼした。持ってきたふきんで湯のみを拭いて祖母の前に出すと、祖母はぱちぱちと瞬きをして、お茶に手を伸ばした。
 祖母の手の皺を見つめながら、わたしはふと夏のひとコマを脳裏によみがえらせる。その延長か、気がついた時には口が勝手に動いていた。
「……おばあちゃん。お母さん、自殺だったってほんと」
 お茶に伸ばされた祖母の手が、中途半端に動きを止める。
 不意打ちだったってことには自分でもすぐに気がついた。でも、いつかは聞かずにはいられなかったのだ。
 祖母は、すぐには返事をしなかった。
「誰が言ったんだい、そんなこと」
 沈黙の後で発せられた祖母の声に、自分の声にあったのと同じ緊張を感じとる。
 緊張にはたぶんいくつかの種類があって、その中のひとつは、嘘を隠すために走るものなのだと思う。
 たとえば、起こった事実を認めないための。
 たとえば、起こった事実を伝えないための。
 そしてわたしの声が抱いたのは事実を認めないためのもので、祖母の声が抱いたのは事実を伝えないためのものだった。だけどそんなもくろみ、そうそううまくいくわけがない。間違いなくうまくいくことが分かっていたら、この種の緊張なんてきっと必要ないからだ。
 やがて祖母は、深くため息をついた。
「……上田の叔父さんが、話していたから」
 白状したわたしに、祖母はゆっくりと顔を向ける。
「上田の叔父さんって、上田洋二かい」
 祖母の問いに、わたしはうなずいた。
「……しかたのない子だね。兄が兄なら、弟も弟だ」
 はっきりとそうは言われなくても、それは最初の問いに対する肯定だった。
 皺だらけの祖母の手が伸び、湯のみを持つ。ずず、と音を立ててお茶を飲んでから、祖母は目を閉じ首を振った。
「時子さんね、ずっと悩んでたのをおまえは知ってるだろ。おまえしか拠りどころがなくてさ、それなのにあの馬鹿息子ときたら」
 母の悩みの内容を、祖母は言わなかった。でもそれはたぶんわたしのことだろうと思ったから、わたしは何も聞かなかったし、聞けなかった。
 なんとなく膝を浮かして、わたしは縁側から部屋へと入る。障子のこちらに積み上げてある座布団の山に目を向けると、なんとなくその前に腰を下ろしてわたしは背中を預けた。
 大勢の来客があるわけでもないのに、この部屋にはいつも座布団の山がある。わたしがいつももたれるせいで、山の形はだんだん崩れていった。時々、祖母が山を直していたのをわたしは知っている。
「あたしが言うことじゃないけど、おまえには悪いことをしたね。どうか、陽一を許してやって」
 斜め後ろから見る祖母の右ひじが動いているのは、左手で持った湯のみを右手でさすっているからだろう。
 何故、わたしが父を許さなくてはならないのかが分からなかった。母が抱えていた問題は、たぶん母とわたしのことだったはずだ。
 それとも、父の無関心さを許せと言われていたのだろうか。夏にならなければ母とわたしのことに気づかなかった父の、母がわたしを叩くのは母自身が虐待を受けた子供だったからだと言った父の。
 祖母の言う意味がわたしにはよく分からなかったから、許すも許さないもなかった。だからわたしは、返事をしなかった。
 返事がないことを、祖母がどう解釈したのかは知らない。
 祖母は長いこと、湯のみを手に持ったままでいるようだった。斜め後ろから見る祖母の姿は、心なしか小さくなったように見えた。

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