カシーガヤの火

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 いまだ正妃を迎えぬ若き王を戴く草原の大国リガーゼは、その強固な軍事力と支配力によって広大な大地を支配する軍事大国である。東西の端のほとんどを海に面し、北部には夏季であっても越境の困難な山脈を有するこの国が、掌握できる土地のほとんどを掌握し尽くしたと言われるようになって久しい。
 国の南部に位置する首都からはすっかり冬の影が消え、遠く海を渡ってやってきたハヤ鳥の群れが至るところで見られるようになったこの新しい季節に、リガーゼは長く不可侵を暗黙の了解としていた一族の地へと足を踏み入れようとしていた。
「着席を、王」
 あの憎らしいハヤ鳥と同じ目をした大臣のひとりが、重鎮の居並ぶ席の上座を視線で示す。鷹揚を装ってうなずき、若輩の王は席についた。
 卓の中央の平面地図には、雪解けを待たずして布陣したリガーゼの各軍力を表す駒が置かれ、すでに幾とおりかの戦略が示されたことを示している。着席からほとんど間を置かずして小姓が運んできた酒で喉を潤し、王は目を細めて地図を見た。
「一族の総数は八百、戦士の数も八百」
 年端もいかぬ女子供でさえも戦士たりうると聞くアデノイアの一族は、今は各所に小部隊を展開し開戦に備えているという。彼らの張った人払いの結界は渡りの習性を持つハヤ鳥の侵入さえ拒んだが、これを破る術を得た尖兵の報告はリガーゼの士気を上げるに十分なものであった。
 いわく、
「魔の力恐るるに足らず、迷いは幻影を呼び信念は勝利をもたらす」
 即位からこちら、眠れば悪夢ばかりをみる若き王を嘲るような、それは報告であった。
 もともと、この若き王は、アデノイアのごく一部の穏健派がよこした妃カシーガヤを娶った後は、今は亡き兄王子の子の誕生を待って廃嫡される予定であった身である。運命の神の気まぐれかいたずらか、先王の喪が明けぬうちに急死した兄王子の代わりに即位したような王であるから、それに幻影を振り切れという方が酷よとささやく古老もあるほどで、この若き王に信念を求める者なぞいない。
 おかげで王は会議の進行などお構いなしに杯を空け、夢の続きを考えることができた。体のそこここにカシーガヤの温もりを思い出し、甘美な幻に溺れることもできた。
 そこに愛しの妃の熱がなくとも、その熱を思い出すことはたやすい。夢に落ちた彼女が求めるのは暖炉の火ではなく、若き王の熱である。何代にもわたりリガーゼの王族に遣わされるアデノイアの花嫁たちは、いかなる法によってかひとりとして子を成さず、彼女たちを主役とした権力闘争の例がないことはこの若き王を安堵させた。王はカシーガヤを己の事情と一体にすることは望まなかったから、アデノイアとの緊張がこれほどに高まる前は年に一度ほどの彼女の帰郷を許していた。心だけ遠くへ飛ばして故国を思うなら、いっそ体ごと離れてしまえばあきらめもつこうものを、火のない体を抱くのはあまりに退屈であった。また王の事情を理解してか、最近ではそのようなことも少なくなったが、故郷への思いを口にせぬ代わりに城の各所に魔の気配を残されるのではたまったものではない。王は己の寝所の外で魔を呼ぶことをカシーガヤに禁じた。
「魔とは命なればこそ、火と同じに体の内にあるのです」
 カシーガヤのことばは謎と眠りを王にもたらし、眠りは王に夢を与えた。カシーガヤの故郷を呼ぶ声は魔を呼び、魔は大気を抜けて老人の形を王に示す。幾度となく夢に老人をみた王は、指にカシーガヤをたどり女の形を取り戻す。
 ホウ、ホウ、ホウ。耳障りなハヤ鳥の声が、女を探る王の掌を包み込む。
 腕を大きく振るってハヤ鳥を追い払い、やがて身のうちに熱を取り戻した王は、女の幻を体に包み、飽きることなく貪った。

「我々は雪解けを待った」
 しかめ面の古老を前に、百戦錬磨の部隊を従える将のひとりが拳を振るう。
「進路を阻む雪解け水はすでに大河へ落ち、我々の前に道は開かれた。いかがかな、王」
 判断を請うと言うよりは、うなずくしかない問いを投げかける将に対して王はちらりと視線を向け――彼らの話は夢をみるかたわらで、しかと耳に吸い取っていた――、口もとにわずかばかりの笑みを浮かべた。
「カシーガヤの里帰りは、今年もかなわぬな」
 目尻に寄せた笑み皺に、年月の経過を王は刻む。最初に目の合った将がぽかんと口を開けたのを見て、若き王は声を立てて笑った。
「お疲れであらしゃる、若き王よ」
 目を向いた古老たちのうちひとりが、狼狽もあらわに立ち上がり、形ばかりの労わりを投げかける。雪解けの終わりがカシーガヤの里帰りの時期であったのは一昨年までのことで、血のつながりを離れた女の帰郷を拒んだのは一族の側である。
「最後と思ってゆきましょうぞ」
 古老の反対を押し切って一昨年の春、里帰りをする際に、そういうことばをカシーガヤは王に残していた。
「開かれた道をゆくまでよ。最後と思った道が二股に分かれておらねば良いがな」
 くつくつと喉を鳴らして若き王は立ち上がり、古老たちが退出を促す前に席を蹴った。
 カシーガヤが彼に嫁いでくる前は、彼の気に入りの小姓であった少年が、一歩後ろから王の道行きを照らすようにその後を追う。見目麗しいこの少年は議場と通路を仕切る扉を閉ざし、若き王と己の後ろ姿を古老の視界から消した。
「あれ、王は今でも、かの美妃に伽を命じておいでかなあ」
 古老のひとりがのんびりと口を開けば、一時水を打ったように静まっていた議場にはざわめきが戻る。
 ホウ、ホウ、ホウ。その片隅で、ハヤ鳥が低く鳴き始める。
「無理もないよ、あの美しさだもの」
「魔は美しきかな。哀れよのう」
 と、ある一方は若き王の不遇を哀れんでささやき、
「器なき魂に里帰りなぞないわ、気味が悪い」
「おうよ、いつまでも意味ない抵抗を続ける癖はかの一族の性悪よ」
「性悪に支配される程度の王であるのさ」
 ある一方は、主君とその愛妃を露骨に蔑む棘を吐いた。

 議場を抜け出した王の後を追って、ハヤ鳥はその麗しき翼を王の影に広げる。羽音も低い鳴き声も、王に付き従う小姓には届かなかったが、王は耳の奥に延々と響くその声に苛立ちを募らせていた。
 放っておけば、いつまでも鳴き続けるこのハヤ鳥たちは、隙あらば王を夢の谷間へ突き落とさんとする。頭を振って王は額に指を当て、表情をのぞくように並んだ小姓の細い顎をつかんだ。
「どうか、王」
 長身の王に相対するため軽く背伸びをした姿勢で、畏怖と違和感を交えた柔和な笑みを浮かべて小姓は問う。応えて、王は問いを発した。
「里帰りはいつかなう、少年よ」
 小姓はぱちりと瞬いて、ハヤ鳥の不協和音に苛立つ王から視線をそらす。逡巡した後に出た答えは、古老たちの反応よりいささか軽やかであった。
「カシーガヤ妃はすでにお亡くなりです、王よ。先のお里帰りの際に、かの一族の地からお戻りになりませなんだ」
 小姓が答え終わる前にその顎を放し、一切の問答に興味を失ったように若き王は歩を再開した。足の裏から立ち上る熱が体を火照らせ、耳もとに燃える炎の音を運び、音の中にはハヤ鳥が不協和音を奏でている。
 ホウ、ホウ、ホウ。寝所に近づけば近づくほどその声は大きくなり、こだまはこだまを呼んで王の鼓膜は右も左もなく震えた。

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