カシーガヤの火
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草原に代表される広大な大地を支配下に置く帝国リガーゼの春の始まりは、雪解けの最中から海を渡ってくるハヤ鳥に象徴されることが多い。
餌を期待してのことであろう、仕切りのない窓辺に群れるハヤ鳥は、広げれば人の肩幅ほどになる美しい羽を折りたたみ、ホウ、ホウ、ホウ、と短い間隔で鳴いている。
普段であれば気にも止めぬものを、早々と起き出していた若輩の王は苛立ちをぶつけるようにつかつかと窓際に寄り、腕を振るってハヤ鳥の群れを追い払った。
ホホッ、と抗議の声を上げて飛び立ったハヤ鳥のうち二羽ほどは羽に空気を蓄えて空中に停止し、ふたたび窓辺へ寄る機会をうかがっている。寄るならば勝手にせよと視線で悪態をついて、若き王はくるりと体の向きを変え、天井から吊るしたビロードに覆われた寝台を向いた。
「何事ぞ、王よ。弱きを払うは強者の技にありませぬ」
その幕を腕で持ち上げる前に、中からは女の声がする。鈴を鳴らすように細い女の声に勇気づけられでもしたか、背後では、窓辺に戻ったハヤ鳥の群れが不協和音を奏で始めていた。
若き王は不機嫌ゆえに表情の消えた顔をビロードの内にのぞかせる。薄絹の衣をまとった麗しの妾妃カシーガヤは、寝台の上に上半身を起こしていた。
「あれ、また怖いお顔をなさって」
ななつ年上の美しい妃の白磁の頬に、柔らかな笑みが浮かぶ。カシーガヤの持つ黒曜石の瞳と漆黒の髪は、リガーゼには拠点を持たぬ古い一族の血を意味した。
昨晩のうちに尽きた香油の残り香に、若き王は灰がかった緑色の瞳を半眼に細める。そうすると脳裏にはカシーガヤの腕に抱かれてみた悪夢がよみがえり、王は感情を持たぬ表情のまま、カシーガヤの白磁の頬に指を伸ばした。
「何、おまえが死ぬ夢をみたのでな……」
ひやりと皮膚を刺激するカシーガヤの体温に、王は唇を閉ざしてカシーガヤの返答を待つ。ことばを返す前に、カシーガヤは幼子をあやすように、ふ、とほほえんだ。
「このような時期に、かような冗談をおっしゃいますな」
寝台の端に腰を下ろした若き王は、カシーガヤの穏やかな口調を受けて悪夢を否定する術を得たものか、黙したまま立ち上がり、ビロードの幕を分けて部屋へと出る。途端にハヤ鳥の不協和音が鼓膜を震わせ、王は口をへの字に曲げて拳を握った。
「まァ、鳥たちは元気ですこと。少し冷えますわね」
音もなく、ビロードを持ち上げることもせずすうっとカシーガヤは部屋に姿を現す。そのままカシーガヤは足を持ち上げもせず絹の裾を床に滑らせて王の側を過ぎ、窓際へと寄った。
ホウ、ホホウ、とハヤ鳥が鳴く。水を汲む形に合わせたカシーガヤの両手には、ひとつ瞬く間に乾燥させた色とりどりの木の実が現れ、窓際のハヤ鳥たちは競い合ってその手から餌をついばんだ。
「不用意に魔を呼ぶでない、妃よ」
不機嫌な若き王の声が、背後からかかる。
カシーガヤは肩に遊ぶ漆黒の髪をふわりと浮かせてほほえみ、若き王を振り返った。
「結界ゆえアデノイアの地に入れぬハヤ鳥へのせめてもの慈悲にございます。種族を絶やす人の技はすなわち、世界を滅へと導く力にございますゆえ」
常であればそのことばに素直に首肯し、己を生んだ一族を懐かしんで説く愛妃の細身をそっと腕に抱こうものを、この時の若き王は何の反応を示すこともしなかった。
窓辺のハヤ鳥に餌をくれるカシーガヤに異論を唱えたことからしてすでに、常とは違う言動の影を残している。カシーガヤは瞼を伏せ、伸びてはこぬ王の腕を待ったが、王はそれに応える腕を持たなかった。
「火を入れましょうか、王」
沈黙を破るカシーガヤの声は、月のない夜の闇、また伸ばした腕の先の見えぬ朝の靄をすり抜けて届く、はかなげでありながらしかとその存在を主張する風の音を思わせる。反応せぬ王の顔色をうかがうことはせず、カシーガヤは暖炉に向けて火の印を結んだ。
ぽ、と点ったわずかばかりの火が薪を侵食するさまを眺め、若き王はきっと唇を結ぶ。
「確かに火を起こすことは重労働ではありますが」
城内の各所の暖炉より、火の入っていることのはるかに少ない暖炉は、温かな命を灯して空気を揺らした。
「……必要のない時には、消すものですよ。それが、わたくしたちアデノイアの民が世界と共生するため、実践するひとつの法にございます」
梢を揺らすカシーガヤの鈴色の声を、若き王は黙したまま聞き流しているかに思われたが、そうでないことはすぐに知れた。
「おまえはすでにアデノイアの民ではない、カシーガヤ」
低く放たれた王の声は、カシーガヤの動きを縛る。
「いかなる魔も自在に操るかの奇跡の民は、すでにその血の大半を失っておろう。もっとも濃い血統を有する女として我に嫁いだおまえとて、その体を流るるは下界の水よ」
残虐な鎖を振り回し、若き王は麗しのカシーガヤの細い肩を抱いた。
「それでも王、人の命が火であるならば、わたくしの指先にはまだ魔の力が残っておりましょう」
「ああ、火をなくしては人の英知は形さえ成さぬ」
「お分かりならば」
若き王の冷えた指先に指を触れ、さらにカシーガヤは瞼を伏せてその指に口づける。
「お分かりならば良いのです、若き王よ」
温かなカシーガヤの熱に溶けゆく己を知り、王は大気に翼を広げた。そうして瞼を伏せれば意識のすべては塵と化し、塵は熱を帯びて女の体を包み込む。
柔らかな肌の隅々を触れ、白い皮膚に血の色を添える微粒子は、やがて愛妃の内側を分け進み、その奥に鎮座する老人のもとへとたどり着いた。
「ホウ、ホウ、若き王」
弾む老人の声はハヤ鳥に似て、震う大気は彼の前に道を開く。
しかし彼は歩を進めることなく、代わって飛び立った鳥は闇の彼方へ消え、大気は人の形を取って地に降り立った。
ホウ、ホウ、ホウ。焚き火の前に座る老人の肩が揺れる。
「死んだよ、王、カシーガヤは死んだ」
老人の顔をした道化が歌い、高く舞い上がったハヤ鳥たちは応えて不協和音を奏でる。羽音を立てて降りてきた彼らは鋭いくちばしにくわえたものを若き王の前に放り、ひとつずつでは形を成さぬそれは、王の前に女の亡骸を積み上げた。
「ホウ、ホウ、我が森のいとし子や」
老人の歌に若き王は叫ぶ、
「泥人形だ!」
「ホウ、ホウ、背徳は麗しきかな」
王の知るそれとはあまりにかけ離れた醜い女の亡骸は、老人の声を餌に踊り、若き王の胸もとに迫る。
「近づくな!」
手で払えば女の頬はずるりとめくれ、
「去れ、魔よ!」
腕を振るえば悲鳴の代わりに泥の飛沫を上げ、女は若き王の両頬を包む。
「ホウ、ホウ、我が森のいとし子や、その身に呪を与えよう」
焚き火の向こうで道化は笑い、若き王は女の舌に愛妃を思い出し、
「――カシーガヤ」
その道化といつしか同調して、王の舌は女の名をなぞった。
床に伸びる冷えた指に指を絡ませ、女は甘く息を吐く。
「悪い夢でも、王よ」
ささやく女の声に、若き王は指の熱を取り戻した。
「おまえが死ぬ夢をみた」
王は繰り返す。女は声もなくほほえんで、若き王の唇を塞いだ。
「会議が始まります、王」
温もりを放つ女のうなじに指を滑らせ、愛撫を寄せても、夜の終わるを知った女に届く技はない。ゆるりと王は身を起こし、自身の乱れた衣服を整える女の手をじっと見た。
「悲しくはないか、妃」
不意にそんな問いが、王の唇を割る。顔を上げぬカシーガヤに、王は重ねて問うた。
「これはおまえの一族を滅ぼす戦ぞ。それに行けと申すか、カシーガヤ」
問う声に答えはなく、王のしなやかな肢体はするりと女の手を抜ける。
「わたくしはすでにアデノイアの民にございませぬ、王よ」
重い影を引いて廊下へと移動した若き王の背に、声なき声をカシーガヤは発した。
ホウ、ホウ、ホウ。
その背後から、ハヤ鳥が騒ぎ立てる。
ホウ、ホウ、ホウ。
餌となる木の実の消えた窓辺のハヤ鳥のうち数羽は、その鋭い爪で石床を蹴り、影を追って議場へと向かった。
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