lotus.
いい匂いが、する。
やんわりと漂っている、この花のような匂いの正体を、数日経っても判明できないでいた。
「…………」
帰宅するたびに、顔を上げてその匂いを確かめる様は、猫が突然、見えない何かを見つけて天井の隅を睨むのに似ている……と思うと、我ながら挙動不審だ。目に見えない匂いの姿を、目で探そうとしてしまう。匂いに詳しそうな人でも呼んでみようかと思うも、そのアテはなかった(アロマが趣味などというメルヘン野郎は当然ながらいない)。女の子にならいそうだが、さすがに、さほど親しくもない子を家に上げるのは、よろしくないだろう。その前に上がってはくれないか。
(……まあ、いいか)
そして今日も同じエンディング。
数日後の日曜日。予定もなかった自分は、相変わらず香るこの匂いの元を探ってみようと思い立った。
目を閉じて、天井を仰いだ。眉をひそめ、首を傾げながら、そのルートをたどる。今誰かがいきなり入ってきたら、無言で何もなかったふりをして立ち去られてしまうだろうな、などと余計なことを考えたら、すっかり判らなくなってしまった。しかし、この姿は怪しい。
それでも、今までの人生でおそらく初めてであろうほど嗅覚をフル稼働して、それとなく行方を感じ取った。
「隣……?」
口にはしたものの、その答えには違和感があった。
隣は空き部屋のはずだ。
ここは角部屋で、隣はひとつしか存在しない。しかしその隣部屋は、自分が越してきた半月前から空いている。そのおかげで、夜でも洗濯機を回せているのだ。
「下じゃない、よなあ」
煙のように匂いが立ち昇ることはあるだろうが、まさか床を抜けてまでくることはあるまい。すぐにその答えを否定し、しかし上からでもないよなと悩む。
「やっぱり隣か……」
真っ白な壁に目をやる。その向こうを想像した。間取りは同じなのだろう、南向きで明るい部屋。
(人、いるのか?)
越してくれば、挨拶ぐらい来るもんじゃねえか? 引っ越し蕎麦までは期待しないが、挨拶ぐらい、普通来るだろう。
不信感を覚えつつ、様子見がてら隣をうかがってみることにした。
*
えらい美人が立っていた。
「えっと、バターでしたっけ? あ、マーガリンだったかしら」
「…………蕎麦だと思いますが……」
マーガリンて、「電気羊」じゃなかったか? というより、この顔に似合わない不思議ちゃん系リアクションはどうなんだ。
何度か引っ越しを経験しているが、隣人の方から挨拶に出向くなど聞いたことがない。しかし出向いてしまったのは自分の方で、玄関先に出てきた美人にビビリつつ、「人がいるようだったので」などという、小学生のようなセリフの後言葉につまった。するとさすがに彼女も察したようで、「あ、引っ越しのご挨拶……」と24時間時差のあるセリフを返し、バターかマーガリンかという48時間時差のある発言に至った。
「あ、そっか、お蕎麦ね! ……あ、今お蕎麦ないのよね。買ってこようか。それとも出前のが早いかしら」
「いや、……あの、蕎麦を食いにきたわけではないので……」
そう言うと、彼女は不思議そうな顔をして、「とりあえず上がりますか?」と言った。とりあえずってなんだ。というか、知らない男をいきなりあげられるものなのか。何もしないが。
それとなくそう尋ねると、
「だって、お隣さんですもの」
という的を得ていない答えが返ってきた。いまどき隣人も危険だぞ。自分は違うが。
ご丁寧にお茶を淹れているらしい彼女の背中から目をそらし、部屋をぐるりと見渡す。同じ間取りなのにやけに広いのは、きちんと片付いているからか。
「ん?」
挙動不審の様相で目を泳がせていると、ふと鼻に覚えのある匂いがひっかかった。
「……これか」
ずっと探していた匂い。蝶を追うように見えない匂いをたどっていくと、透明なアロマポットに行き着いた。座らされていたソファから立ち上がり、ポットの前まで寄る。揺らめくロウソクの火と、微かに見える湯気が連れてくる匂いは、ここが源流なのに濃厚さはなく、自分の部屋でかぐのとさほど変わらない。しかし何の匂いなのだろうか。
「ロータスなの、それ」
まるで声に出しての会話のように、見事なタイミングで背後から声があった。
「ロータス……」
……って何だっけ、と続ける間を与えられず、「お茶どうぞ」と促された。そして、「蓮よ」と続く。
「この、匂いが、俺の部屋にもしてて」
そこまで言って、続きに困った。迷惑しているわけではないし、匂いの出所以上の興味があるわけでもない。
「覚醒につながる日常、て意味なの」
「は?」
手をつけないのも失礼かと思いカップに伸ばしかけた指が止まる。
「この匂いが」
匂いに意味があるのか、などと思いつつ「へぇ」とか間抜けな返事をした。話が噛みあわないのに気がついたのは、随分と後のことだった。
「覚醒につな、……?」
「つながる、日常」
「……って、なに?」
抽象的なのか、そのままの意味なのか。見当もつかずに黙ってしまうと、彼女は柔らかい笑顔のまま事もなげに言った。
「たとえば、今のこの状況とか?」
*
それが「告白の言葉」だと知ったのは、2日後のことだった。
「判ってもらえると思ったのに」
「いや、普通判んないから」
今度は向こうから呼ばれ部屋を訪れると、「遅くなりましたが」と蕎麦をふるまわれた。催促していたみたいじゃないかと思いつつ、言ってしまうと余計かっこうがつかないので、遠慮なく頂くことにする。ダシから油揚げまで自家製だという、やけに手の込んだきつね蕎麦をすすり始めた自分に、彼女は唐突に「こないだのね、」と切り出した。
彼女と自分は初対面ではないのだそうだ。
“だそうだ”としか言えないのは自分に全く覚えがないからなのだが、知人が別のフロアに住んでいるという彼女は、何度か自分とエントランスで会っていると言う。
「一目ぼれってやつですか」
「……はあ」
嬉しい言葉のはずだが妙に滑稽なのはきつね蕎麦のせいか、彼女のキャラのせいか。
「で、この部屋が空いたっていうのを聞いて、思わず」
引っ越してきてしまったというのだ。こんな美人なら歓迎だが、それでも嬉しいやら怖いやら。
「……女の人ってスゴイすね。…………色んな意味で」
フェイドアウトした「色んな意味で」は彼女に聞こえなかったのか、「そうですか?」と笑う。そして、続けた。
「最初から全部本気だし、ちゃんと“覚醒につながる”って信じてたし」
*
彼女と自分が付き合い始めた理由を、信じてくれる人はあまりいない。好き好んで自ら話すことではないので、成り行きを知っている奴がそもそも少ないのだが、信じてもらえる確率は双子の姉妹が双子の兄弟と結婚して2組とも双子を産むほどに低い。
それはそうだと我ながらに思う。
「匂いに誘われて、……って蜂か? 俺は」
そう言うと、彼女は決まってこう返す。
「蝶のほうが似合ってるよ」
しかしそれに「そうだな」と言い返せないのは、彼女の容姿ゆえか。
まだ、部屋には相変わらずロータスの匂いが漂っている。
これは自分をつなぎとめておくためなのか、夢がさめないようにするためなのか。定かではないが、疑うことを要さない今は、とりあえず平和だ。
end.
リクエストした内容は、「成立する男女カップリングもの」でした。個人的に、桜井さんの書かれるキャラクターのリアル感、それともリアリティ感? が好きです。あまりうまく言える気がしませんが、「ああ、こういう奴いるいる!」という感じの。隣人の不思議ちゃん系な発言に悩まされつつ、ふと気がつくといいように振り回されている主人公、という構図もこう、このキャラ系統ならでは、という印象を受けるのでした。
公開が遅くなってしまいましたが、桜井さん、ありがとうございましたvv
桜井さんのサイト「fuca.web」は<こちら>です。