骸の行く先
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なけなしの路銀で借りた安宿の一階は酒場になっていて、夜ともなればざわめきは建物の全体を満たすほどであった。実質的な敗戦を迎えてからこちら、この国の経済は大打撃を被り、それによる二次被害を受けた者は少なくはない。それには自分自身も含まれるわけだが、階下のにぎわいを聞いていると、損をさせられたのは自分たちだけではないのかという錯覚を起こしそうになる。
周囲が騒がしいことにではなく、己の胸の内が静まらぬことに、ウィーグラフは苛立っていた。
ベッドの向こうで建てつけの悪い扉が鳴き声を上げた。ウィーグラフはちらりと振り返るが、すぐに視線を床に落とす。誰何の必要はなかった。
「こんな時間に、どこへ行っていた」
背後をうかがい、慎重に扉を閉めた妹に吐き捨てるように問う。
ミルウーダはベッドを背もたれにして床に座りこんだ兄の後頭部に視線を向け、腕を組んで扉の前に立ち止まった。
「ちょっと、水を浴びにね。おかげでさっぱりしたわ」
濡れてもいない髪をかきあげ、平然とミルウーダは言い放つ。ウィーグラフは沈黙を返した。
まったく、部屋に自分ひとりの時くらい、ベッドに転がっていればいいものを……。こぼしかけたため息を飲みこんで、ミルウーダは腰帯から鞘を外し、ベッドの脇に立てかける。声をかけるまで兄がこちらを向かないことは分かっていたので、断りもせずミルウーダはその場で着替え始めた。
頑丈な装備など持ち合わせていないから、着替えに時間はかからない。手持ちの荷物も少ないものだ。少しでも金の足しになればと、売れるものはすべて売った。できることなら宿など借りずに野宿でもした方がいいとミルウーダは考えるほどだったが、それにはウィーグラフが首を縦に振らなかった。この兄ときたら頑固者で、本人がかまわないと言っていることにまで余計な気遣いをしたりする。野宿など戦時中は当たり前のことだったのに、仲間とともにいるわけではない今は駄目だと言い張ってきかない。宿を借りるにあたっても、路銀はないに等しいと言うのに部屋はふたつ必要だと言う始末で、
「わたしの身を案じてくれているの、それとも自分が襲われるとでも思っているの?」
そうこちらから言ってやってようやく、自身の要求が必要外のものであると気づくほどだ。
挙げ句、ひとつしかないベッドを自分は使わないと言うのだから強情なことこの上ない。今が寒さの厳しい季節ならともかく、それでなくとも暖流の影響で温暖な気候である貿易都市ドーターの南部のこの時期、寝具なしでも夜を過ごせないことはない。
「財布を共有しているのに、それでは不公平だわ。交互にベッドを使うのが嫌なら、いっしょに寝るしかないわね」
二者択一を迫られて、ウィーグラフは前者をとった。
兄のようすを見る限り、今日も仕事は見つからなかったようだ。剣技に長け、実直な男であるから、余計な条件をつけさえしなければ仕事は比較的楽に見つかるだろうに、ウィーグラフはミルウーダの身を案じて仕事を探すにもいらぬ条件をつけているのだろう。心配をされることはありがたいが、この兄は少々過保護だ。このままではすぐに生活は破綻する。
だが、今と同じ生活は、来月までは続かないだろう。ミルウーダはそう確信していたから、焦りを感じはしなかった。問題はどのようにして兄の目をこの生活から背けさせるかだ。協力者が増えれば道は広がるだろうが、そこを歩く当人が足を踏み出さぬのでは話にならない。少なくともギュスタヴ・マリゲルフが約束の場所を訪れる前には、兄をその気にさせる必要があった。
「ねェ、兄さん。わたしたちは頼もしい協力者を得ることができそうよ」
ミルウーダは先ほどついたばかりの嘘がばれるのを承知の上で、今日会った男の名を出すことにした。彼に対してウィーグラフがよい感情を持っていないことは十分承知している。ギュスタヴの名を聞くと、案の定、ウィーグラフは目をむいた。
「ギュスタヴ・マリゲルフだと? ミルウーダ、おまえ、あんな男に何を期待しろと?」
向き直った兄の表情を見て、ミルウーダは苦笑した。どうやら兄の気が乗らないことを心配する必要はなかったらしい。こちらの知らぬ間に、この兄はすっかりその気になっているではないか。
そんな胸の内を表情には乗せぬよう意識して、ミルウーダは力強く唇を結んだ。
「先入観で人を判断してはいけないわ。確かに彼は、あまりいい人材ではなかったけれど――骸騎士団においてはね」
ミルウーダはくるりと体の向きを変え、硬いベッドに腰を下ろす。心中を探るような兄の視線を背に受けながら、ミルウーダは愉快でならなかった。
「状況が変われば、人は変わるもの。互いに利用価値を見出すのは当然だから、確かに彼が力になってくれるのはわたしたちが彼にとって都合のいい存在である間だけかもしれない。でも」
淡々とミルウーダはことばをつなぐ。その間、ウィーグラフの視線が色を変えることはなかった。
「自分ひとりの面倒をみるためだけになら、彼はわたしたちなど必要としないわ。ねェ、食糧置き場であなたが食糧を与えた女の子を覚えている?」
ウィーグラフは頭の悪い男ではなかった。肩越しにミルウーダが振り返った時、ミルウーダの真意を探ろうとする意思は変わらずそこにあったが、その視線は先ほどよりは和らいでいて、それを見たミルウーダは会心の笑みで表情を彩った。
夜の更けたドーターのスラム街の一角でギュスタヴは、己の人格を取り沙汰されているとも知らず、暗闇に眼を開いて日中の出来事を回想していた。背中側には、床に放置されていた膝かけをシーツ代わりに、こどもが気持ちよさそうに寝息を立てている。時期が時期なら小さな膝かけも取り合いになったかもしれないが、背後のこどもは寝相が悪いせいでいつの間にか体中に巻きつけてしまったらしく、先ほどなどずいぶん苦しそうに身をよじっていた。今はどうにか、楽な姿勢をとることができたようだ。
慰み程度の食糧とは言え、少女がパンを持ってきてくれたおかげで、今夜は楽に寝つくことができるような気がしていたが、現実にはもうひとりの来訪者の存在が眠りを妨げていた。
「本気、なのかな……」
押し殺したようなため息と同時に、独白が唇を割った。考える必要もないことを悶々と考えてしまって眠れない夜は、そのことから意識をそらそうとするだけ無駄だ。普段なら子守歌代わりになるこどもの寝息を聞きながら、ギュスタヴはミルウーダ・フォルズの声を思い出していた。
「今こそ奪い返すのよ、わたしたちが奪われたものを、わたしたちに残されたこの身ひとつで」
暗闇に慣れた目でギュスタヴは己の手を見た。ミルウーダの手のようにこの手が震えないのは、彼女ほど強い憤りを胸の内に抱いていないからか。
「――わたしたちには、神が味方する」
神、か。
言い切ったミルウーダの声を思い出して、ギュスタヴは失笑した。本気でミルウーダは神の実在を、己を味方する神を信じているのだろうか。ギュスタヴの耳には、そうと言い聞かせて己を鼓舞しているようにしか聞こえなかった。そうまでして神を信じなければならない女、そういう形でしか信仰されない神、どちらも何と哀れで滑稽なことだろう。
金も地位もない貧民に味方する神がいるのなら、幼いこどもをおれのような男に押しつけるはずもない。神とは己の身の不運に耐えかねた弱者が見えぬ明日への不安を払拭するために作り出したものだ。そして、執政者によって都合よく利用されているだけのものだ。そんなことはミルウーダにも、とうに分かっているはずだった。
仰向けになってギュスタヴは小さくため息をついた。ギュスタヴが今欲しているのは夢もみないほどの深い眠りだった。意識の深遠をのぞきこむような夢を突きつけられるのはごめんだ。こんなクソガキの存在など忘れて熟睡させてくれるのなら、この一時だけでも不公平極まりない神よ、その実在を信じてやろうじゃないか……。
まだ遠い夜明けを意識の奥に見、扉の向こうのささやきさえ聞き漏らさないほどに神経を張り詰めたまま、ギュスタヴは暗い瞳を閉じた。瞼を下ろしたところで、暗い視界に大きな変化が訪れることはなかった。
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