骸の行く先
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眩暈がする。
掌で額を包んで、男は瞼を伏せた。ため息をこらえるように歯を噛み、胸に蓄えた空気をゆっくりと吐く。
この眩暈は、空腹のせいだ。そしてその原因は、おれをこんな場所へと追いやった連中にある。男は指の隙間から部屋をのぞき、視線を左右に動かす。腹を満たしてくれるようなものは何も見当たらなかった。
何を呪ったところで現状を打破する術にとって代わるものはないと分かりきっていた。それなのに、おかしなものだ。自分以外の何かに原因を押しつけたくなるのは何故だろう。男はもう一度瞼を伏せ、歯噛みした。こんな時に、あのクソガキはどこへ消えたんだ。
男は貿易都市ドーターのスラム街の廃屋で、いつの間にやら姿を消したひとりのこどもを待っていた。戦争孤児らしいが、ネズミのようにちょこまかと動き回るその姿や、何気なしに見せる屈託のない笑みには哀れみを乞う要素を持たない、おかしなこどもだ。先頃終戦を迎えたばかりの隣国オルダリーアとの戦いの中、男が所属する騎士団あてに配給された食糧を毎日のように盗み食いに来ていたことから、男とは顔見知りになった。骸騎士団の名を持つ平民出身の騎士で構成されたその騎士団は、終戦後間もなく解散を強いられ、国からの物資の配給は永遠に停止したが、それが理解できないのだろうか、あのこどもは男が騎士の職を失ってからも側に張りついて離れなかった。
そのこどもが、ここ二日ばかり姿を見せない。正確には昨日の夜明け直前、空腹で目が覚めでもしたのだろうか、ふざけてすり寄ってきたところを、うっとうしいと言って引きはがしてからだ。その後男は浅い眠りに落ち、空腹で目を覚ました。こどもの姿は廃屋から消えていた。
おおかた、男の側にいたところで食べ物は得られないと知って、残飯でも漁りに言ったのだろう。骸騎士団の配給物資を盗むようになるまではそうして食いつないでいたと言っていた。仕事を得ることができない自覚があるのなら、その方がよほど賢いと男は思う。そしておれは、こんな時代のことだ、護衛の仕事でも引き受けることができたなら、懐も腹も満たすことができるだろう。
そう思うのに、体が動かなかった。それが空腹のせいであるとは、残念ながら思うことができなかった。こんな程度の空腹なら、骸騎士団時代にも経験している。くそ、忌々しいあのガキめ。口の中に男はつぶやく。
そのつぶやきが終わるか終わらないかのうちに、ギイィ、という音が背後から聞こえた。蝶番の外れた木の扉が開く音! 男は勢いよく上半身を起こし、廃屋の入り口を振り返った。ガキめ、ようやく戻ってきたか――。
しかし予想に反して、そこに立っていたのは男の想像とはまったく体格の違う影だった。男は眼を見開き、背後に午後の日差しを背負った人影を見た。影になった顔の判別がつくまでには少々の時間を要した。
扉を開いた人影の正体は、顔見知りの若い女剣士だった。男にとっては、二度と顔を合わせることはないだろうと思っていた相手でもある。男は相手を確認すると、興味をなくしたように体の向きを戻した。
その女剣士は名をミルウーダ・フォルズといい、骸騎士団団長を務めた男、ウィーグラフ・フォルズの実妹であった。言わば男にとっては騎士仲間だった相手だが、彼女も男と同様、騎士団の解散と同時に解雇された身の上である。状況が状況なら再会を喜んだ相手かもしれないが、この再会自体には男は何の感情も抱かなかった。代わりに抱いたのは自身への失望と自嘲であり、このふたつは男にため息を吐かせた。いったいおれは、こんなところで何をしている。
「こんなところにいたのね。探したわ」
机に伏した男に、淡々とした声でミルウーダが話しかけてきた。男は聞こえないふりをした。
「なァに、その態度。聞こえているでしょう、ギュスタヴ・マリゲルフ? 騎士の位といっしょに、耳を切り落とされでもしたの」
ミルウーダの率直なものの言いようは男を苛立たせ、好意的ではないにしろ、彼の気を引くことに成功した。
「何の用だ」
放たれた問いは投げやりで、言外に退去を要求している。ミルウーダは涼しい顔で問いを無視した。
「あの子は?」
コツ、と小さな足音を立て、ミルウーダは一歩を刻む。ギュスタヴの耳がぴくりと動いた。己の心臓が跳ねる音を聞いた気がする。戦は終わり、解雇されたにもかかわらず、ミルウーダはまだ武装を解いていない。視力に頼って確認するまでもなく、固いかかとの音でそれが分かった。
何故、とギュスタヴは胸中につぶやいた。その直後、己が違和感を得たことにギュスタヴは動揺した。おれ自身、仕事を得るために武装を解いてはいないのだから、ミルウーダが鎧を身につけたままでいても何の不思議もない。
「誰のことだ」
動揺を隠すようにギュスタヴは吐き捨てた。そうした心境にミルウーダが気づいたかどうかは定かではない。
「いつも、側にいたじゃない。あなたがかわいがっていた女の子」
ミルウーダの淡々とした声にギュスタヴが答えるまでには、今度は少しばかりの間があった。
「……知るか。おれのガキじゃねェ。……何をしにきた」
重ねて問うギュスタヴの背を、無言でミルウーダは見つめていた。ややあってその頬には笑みが乗る。ミルウーダが居場所を問うたこどもに心当たりがないふりをしたくせに、すぐにそれを引っくり返す発言をギュスタヴはした。自覚の有無にかかわらず、それはミルウーダをほほえませるに十分な材料だった。だから、これ以上同じ話題に触れてギュスタヴの機嫌を損ねようとはミルウーダは考えなかった。
「――五十年戦争」
静かに、ミルウーダは声を吐き出した。ギュスタヴの耳が動く。彼が興味を持ったかどうかをミルウーダは気にしなかった。故にミルウーダは、ギュスタヴの返事を必要としていない。
「王家はあの戦いをそう名づけたわ。……名をつけることは、過去のものとすると宣言することと同じね」
無言のまま、ギュスタヴは首を持ち上げた。視線は机上を向いたままだ。
ミルウーダは口を閉じた。腕を組み、今度はギュスタヴからの反応を待つ。遠回しなことばがもたらす効果には自信があった。何しろ相手は、百戦錬磨の元北天騎士団騎士だ。イヴァリース一と称えられた北天騎士団へ生まれだけを武器に入団したような男ならばともかく、ギュスタヴのように家名にほとんど頼らず北天騎士団に入団したほどの男が、他人のことばの背後にひそむ真意に対して鈍感であるとはミルウーダは思わない。
「何が言いたい……」
「分からないとは言わせない」
ミルウーダは即座に返した。こつりと足音を立て、ギュスタヴの前に回りこむ。
ギュスタヴはちらりとミルウーダを見やったが、すぐに机上へと視線を戻した。
「愚かしい戦争は終わったわ。そしてわたしたちは放り出された。王家が今、何に取り組んでいるか知っている? 病弱な爺のさらなる傀儡化と貴族へのご機嫌うかがいよ。あなたのあの子のように、食糧を求めて街をさまようこどもがいることに気づかないふりをして」
ミルウーダの声にちらつく棘に、ギュスタヴは唇を歪めた。机から顔を持ち上げてはいるが、前方を向いてはいないので、その表情はミルウーダからは見えない。
ギュスタヴが無言であることを、ミルウーダは気にとめなかった。
「オルダリーアとの戦いは終わっても、わたしたちの戦いは終わらない。そのはずよ。いいえ、もしかしたらこの戦いは、始まったばかりなのかもしれない」
ミルウーダの痩せた手が、埃だらけの机上に乗った。
「……車は一日に何度も、往来を駆け抜けるわ。でも中身を得るのはごく一部の人々だけ。残る人々は指をくわえて車を見送るの。夜露をしのぐ家もなく、寒さに震えてね……。こんな不平等を許す神などいないわ」
唇を噛み、ミルウーダはうつむいた。机上に置いた両の拳はかすかに震えている。
ギュスタヴは返事こそしなかったが、視線を上げ、ミルウーダの拳を震わせるものの正体に気づいて小さくため息を吐いた。それはひどく抑えたものであったから、ミルウーダには届かなかったはずだった。
「だから、わたしたちには神が味方する。今こそ奪い返すのよ、わたしたちが奪われたものを、わたしたちに残されたこの身ひとつで」
怒りを殺し、言い終えたミルウーダが顔を上げた時、ギュスタヴは頬杖をついて廃屋の壁を眺めていた。その表情には、嘲るような笑みが乗っている。
ギュスタヴの心情を量りかねて、ミルウーダは唇を結んだ。ギュスタヴの視線がちらりと己をとらえたのをミルウーダは見逃さなかったが、ことばを発することは避けた。
「別に、家などなくとも夜露はしのげるだろう。あの戦で主をなくした家も多い」
たとえばこの廃屋のように、とギュスタヴは視線で続けた。ミルウーダは口を閉じたままだが、表情は雄弁だ。反論を封じるようにギュスタヴは彼女から視線をそらした。
「家なぞ、あればあったでおれを縛るだけだ、あれほど邪魔なもんはねェ。それに仕事は探せばいくらでも転がってる。食うのに苦労はしないはずさ」
瞼を閉じると同時にギュスタヴがことばを切ると、沈黙が廃屋を訪れた。
おれもまったく、白々しいことを言う……。ギュスタヴは喉の奥で独白した。ミルウーダの視線に落胆がよぎり、彼女がさっさとこの場を去ることを心のどこかでは期待している。反面で、この期待が外れるに違いないことをもギュスタヴは承知していた。こうしたことばのひとつやふたつで引き下がる程度の決意であるのなら、最初からおれを探してなどいないだろう。
ギュスタヴのことばが強がりに過ぎないことはミルウーダには一目瞭然だろうが、ミルウーダはそれについては噛みついてこなかった。
「……では、剣を持たない者はどうするの。あなたのあの子のように」
代わりにミルウーダは、少しだけ瞼を下ろして静かに問いを投げかけた。ふたたび廃屋を沈黙が支配する。
ギュスタヴは静かに息を吸い、胸の奥にためた。頬を支えていた腕はいつしか机上に倒れ、苛立ちは殺した表情を動かすに至った。ミルウーダの真摯な瞳をにらみつけ、ギュスタヴは顎をしゃくる。
「さっきから聞いてりゃ何だ。おれのあの子ってのは、あのクソガキのことか? あんなガキひとり、おれだっていちいち見ちゃいねえ。どこで野垂れ死んでようと知ったことか」
不機嫌極まりないギュスタヴの声に、ミルウーダは怯まなかったが、正面切って言い返しもしなかった。
音もなく、ミルウーダの手は机上を離れた。ギュスタヴは鼻で笑い、ミルウーダから視線をそらす。
ミルウーダは唇をつり上げ、声もなく笑った。
「揚げ足とりは男の格を下げるわよ」
吐き捨てるような声に、ギュスタヴは何の反応も返さなかった。
「訂正してほしかったら食糧置き場へおいで。一両日中なら、食糧にありつけるかもしれないわ」
射るような鋭い視線をギュスタヴに向け、言い終えると、ミルウーダはさっさと歩き出した。固いかかとが音を立て、埃を立てる。
ギュスタヴの視界を左から右へミルウーダは横切ったが、ギュスタヴは視線を動かさなかった。食糧置き場とは、骸騎士団が配給された食糧を蓄えていたドーターの外れの枯れ井戸のことだろう。そういう言い方で場所を示唆したということは、障害になりうるすべての者に場所を明らかにするなということだ。
薄い笑みを、ギュスタヴは浮かべた。
おめでたいことだ。本気で彼女は行動を起こそうとしている。無論その背後には、兄であるウィーグラフ・フォルズの存在があるだろう。だが、吐くせりふのすべてが彼の意思というわけではないはずだ。
ミルウーダは無言で扉を開け、廃屋を出て行った。蝶番の外れた扉はきいきいと耳障りな音を立てる。一度開けば、しばらくの間安定しないこの扉が、不安定な己を象徴しているように思えて、ギュスタヴは大きく頭を振り、すっかり忘れていた眩暈にふたたび襲われて後悔した。
くそったれ。口の中でギュスタヴはつぶやく。
家なぞおれを縛るだけ、か。さっさと仕事を探しに立てばよいものを、いつまでもこの場に縛られて動けないくせに、よくもそんなせりふを吐けたもんだ。自嘲にギュスタヴの唇はつり上がる。大声で笑う気力はなかった。
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