背信者
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太陽が、天頂を過ぎた。
骸旅団副官ギュスタヴ・マリゲルフは、背後から聞こえてきた物音にゆっくりと体の向きを変えた。
丸腰で縛り付けられている以上、今は脱出の機ではないと判断したのであろう。意識を取り戻してからというもの、時折姿勢を変える他はエルムドア侯爵に目立った動きはなく、半刻ごとに訪れる見張りの者に告げるギュスタヴのことばも単調なものであった。
「変わりない。そちらはどうだ」
ようすをうかがわれた剣士は、「変わりない」と短く答え、ギュスタヴの背後のエルムドア侯爵の姿をちらりと見やり、そして去っていく。
そういうやりとりが何度か繰り返されるのを、エルムドア侯爵は黙したまま観察していた。
エルムドア侯爵との会話は途切れたままであり、ギュスタヴは見張りの布陣を動かすことも、他の誰かに見張りを交代することもしなかった。
ギュスタヴ対エルムドア侯爵。一対一の時間は、ただ淡々と流れていく。
そのうちに、またあの味のない豆だけのスープを手に、ひとりの男が姿を現した。
応じるのは無論ギュスタヴである。一言二言の短い会話を交わし、ギュスタヴは二杯のスープを受け取って、きびすを返した。
後ろ手に縛られ、うつ伏せに転がされた状態で首を上げていたエルムドア侯爵の表情に、かすかな疑惑がよぎる。
ギュスタヴは無言で、エルムドア侯爵の前にスープの皿を置いた。屈めた姿勢を戻してすぐ、汚れた皿に口をつけ、音を立ててスープをすする。
人質の視線を、果たして意識しているのかどうか。その目の中に、わずかな驚きが浮かんだ。大切な人質がいるからと、気をきかせたのか、それとも偶然手に入れたものか――微量ながらスープに含まれた塩分の効果である。
続けて二度、三度と喉を鳴らし、すぐに無表情に戻ったギュスタヴは、瞼を伏せるようにして己を見上げる人質を見た。自虐的な笑みが、その頬を飾る。
「たいしてうまい代物ではないがね。毒を疑うのでなければ、口にしておくことだ」
見下ろすギュスタヴの視線と見上げるエルムドア侯爵の視線が直線を描く。ややあって、黙したままエルムドア侯爵は視線を落とし、唇を開いた。
「何故だ」
声は多少かすれてはいたが、疲労の影を隠そうとする気丈さは見習うべきものだろう。いったい何が彼を支えているのか。立場が立場でなければ、ギュスタヴは問うていたかもしれない。
「何故とは心外だな。あんたはおれたちにとって大切な人質だということさ」
含み笑いを漏らすギュスタヴに、エルムドア侯爵は口もとを歪めた笑みで応じる。
「それとも、犬食いはできないかな」
揶揄するギュスタヴに真意のつかめぬ笑みを向けると、エルムドア侯爵は長い銀髪を下敷きに木板に顔を伏せた。
その後の人質の行動に、ギュスタヴは興味を持たなかった。そのまま彼が身動きせずとも、あるいはここでは不要な自尊心など捨ててスープを口にしたとしても、それはギュスタヴには何の関係もないことだ。余計な怪我は負わせず、ただ手負いの獣にならぬよう弱らせるだけ弱らせて、後は身代金と引き換えに解放する、その時まで生きていてくれさえすれば十分だ。解放後のことなどどうせ知ったことではない。
そこまで考えたところで、ふと思い当たったことがあって、ギュスタヴは顎に手を当てた。
エルムドア侯爵の乗る馬車を襲撃した直後、ギュスタヴは部下に指示して馬は二頭とも闇市場に売り払った。うち一頭は最初の襲撃で足に矢傷を負わせたし、質のいい馬であるから足がつくことを恐れて破格の値段で取り引きせざるを得なかったが、これほど短期間に勝負がつくのであれば、どこかに隠しておいてもう少し高値で売った方が良かったのだろうか。
いや――。
即座に己の考えを否定して、ギュスタヴは軽く首を振った。
捜索という目的を表向きは背負わされた草が貿易都市ドーターにたどり着いたのが、四日前のことだ。その日のうちにドーターに忍ばせていた部下のひとりから報告を受けたギュスタヴは己に言い聞かせていた。あと六日。六日の間追っ手の追及を逃れさえすれば、作戦は完了だ、と。
報告を受けた時、ドーターの南の小さな集落跡で野営をしていたギュスタヴは、三日の空白を空けて移動を開始した。ゼクラス砂漠のこの集落跡で落ち合うことになっていた味方と顔を合わせエルムドア侯爵の姿を再確認したのは、今日未明のことだ。
このままここにとどまって、あと二日。そうすればダイスダーグの密命を受けた草がここを訪れ、身代金と引き換えにエルムドア侯爵を連れて行く。彼らはいったんエルムドア侯爵を安全な場所まで届けた後、仲間を連れてここへ引き返し、身代金目当ての要人誘拐を企んだ愚者たちを見せしめのために血祭りに上げる――。
それがダイスダーグの指示による、草側の演出である。ガリオンヌの中心都市、イグーロスから放たれた草は、現在はイグーロスに対しては所在不明となっているはずだ。エルムドア侯爵を誘拐した野盗に襲われたか、その他の事故に遭ったかのどちらかの理由で消息を絶ち、その後派遣された後援部隊に助けられて野盗を一掃、ただし彼らはダイスダーグの密命を受けており、ギュスタヴとその部下は死亡したことにして国外逃亡する……。
時間的なロスを暗幕に仕立て上げた、生真面目にエルムドア侯爵救出を考える者たちをはなから蔑むような作戦であった。
たいしたものだ、あのダイスダーグ・ベオルブという男は。ギュスタヴは胸中に何度となくつぶやいた。
エルムドア侯爵に恩を着せ、自分たちの思惑に彼が逆らう余地を少しでも減らすために、捕虜に捕らえたおれを解放してまでこんな作戦を展開させるとは。
国王オムドリア三世の世継ぎ問題に絡み、白獅子ラーグ公と黒獅子ゴルターナ公の間の緊張が高まる中で、ゴルターナ公の領地ゼルテニアの隣地ランベリーを支配するエルムドア侯爵とのつながりをそうまでして深めておこうという意図に、ギュスタヴは感服する他なかった。イヴァリースの食料庫であるランベリーから食料の供給を受けることができるのなら、食料問題は簡単に片がつく。また、いざ軍事衝突が起こった場合に、エルムドア侯爵を味方に引き入れることができれば、それほど心強いものはない。軍人としての彼の才への期待もさることながら、背後から敵をつく手段を持つということは、何にも勝る戦力であった。
そんな思惑に躍らされ、これほどに屈辱的な扱いを受けることになるとは、「銀の貴公子」の不運もなかなかのものよ――。
笑い声を飲み込んで背後のエルムドア侯爵を見やると、侯爵は先程と変わらぬ姿勢で、髪をクッションに木板に頬を押し付けるような姿勢で瞼を伏せていた。
眼前に置かれたスープの皿に口をつけたようすは、ない。
誘拐からこちら、丸四日間彼にはいっさいの食事を与えていないというのに、よく我慢が続くものだ。
多少は感心しながら、体の向きを変えようとして左足を引くと、木板と砂とをこすった音にエルムドア侯爵はぴくりと反応し、頭を上げた。向き直ったギュスタヴとほんの一瞬だけ目を合わせ、ふたたび彼は姿勢を戻す。
飢えるという経験は、彼にとっては初めてのものだろうか。ふと、そんなことを考える。
先の戦争の終盤には、前線の食料不足は深刻な問題だった。続出した脱走兵の多くは祖国のために戦うという大義名分、理想と満足に飯の食えぬ現実とのギャップに耐え切れなかったのだろうし、戦況と飢えに絶望を抱きさえしたのだろう。
北天騎士団に在籍している間、特に小隊の指揮を任せられていた間のギュスタヴは、食料に悩んだことなどなかった。占領した村から奪いさえすれば食料も財宝も手に入ったし、不足が生じればまた小さな農村を襲えばすむことだった。
もちろん、骸旅団の前身である骸騎士団への転籍を余儀なくされてからは、それまでと同様にはいかなかった。下流の貴族出身であるとは言え、育った環境については平民とさほど変わらぬギュスタヴであったが、骸騎士団の騎士たちの捕虜への対応はギュスタヴには慇懃無礼なものにさえ思われた。己の食料を提供してまでも騎士間の、そして捕虜間の平等を保つことを良しとした骸騎士団団長ウィーグラフ・フォルズとは幾度となく衝突を繰り返してきた。
その当時のことだ。ギュスタヴが「飢え」を経験したのは。
では、この人質はどうだろう――。ふたたび、ギュスタヴの思考は疑念へと帰結していく。
ギュスタヴの胸中の問いを聞いたかのように、ゆっくりとエルムドア侯爵が顔を上げた。
「プライドを捨てる気になったかね」
そう言ってやろうかと思ったが、やめた。スープ皿に対する執着など彼の瞳には浮かんでいないことを直感したからである。
目を合わせてからの沈黙は短かった。誘拐実行犯と人質、対極に位置する者同士が互いの胸中をごくわずかの間に察し合ったかのような錯覚をギュスタヴは受けた。開かれたエルムドア侯爵の口からこぼれた問いとギュスタヴの予想したせりふとの類似は、そういう錯覚を抱かせるに十分なものだったのだ。
「尋ねられるうちに尋ねておこう。領地査察と食料の流通状況の調査を兼ねていたとは言え、極秘裏にガリオンヌを訪問した私をこれほど効率的に誘拐するほど、おまえたちの情報はたしかなものなのかな」
なんと核心をついた問い。
形式上は質問を装っていても、口にした内容がすでに確信の域に差しかかったものであることを、エルムドア侯爵の声音と表情は如実に語っている。
唇の両端をつり上げ、ギュスタヴは笑みを作った。
「侮るな。情報なんてものは、どこからだって入ってくるものさ」
両腕を大きく広げ、受動を示す。だが自分の反応が自信にあふれた否定として有効かどうかを確かめる術を、ギュスタヴは持たなかった。
内心にはつぶやいている。残念だったな、ダイスダーグ卿。あんたの目的は詐欺の対象者によって遮断されたよ。
だが、そんなことはどうでも良かった。ギュスタヴが求めているのは金と国外逃亡の手段であり、この後に予想されるダイスダーグ卿とエルムドア侯爵の間の確執になどかかわる気はない。
「私を解放するつもりかね、本当に?」
己の置かれた立場を無視するかのように、エルムドア侯爵は問うた。
まるで、解放されることを望まぬような問いだな。ギュスタヴは薄く笑う。
感情の読めぬ笑みを浮かべはしたものの、声に出しては何も答えなかったギュスタヴに向かって、エルムドア侯爵はふたたび口を開いた。
「これほどの情報力を誇りながら、ただ金を受け取るだけでおまえは満足するのかな。他の者たちはそれで良いかもしれん、だがおまえはこのアナーキスト集団の副官を務めるほどの人物――他の誰よりもこの組織のことを知っていように」
わずかに首を伸ばし、ギュスタヴは目を細めた。
「……あんたは分かっちゃいないのさ。食料を手に入れることもままならぬおれたちの生活について、あくまで表面上を理解しているだけだ。金だよ、まずは金。それさえ手に入ればあとはどうとでもなる。おれはもう、懲り懲りなんだ」
淡々とした、木板に吐き捨てるような声――。
エルムドア侯爵は真一文字に唇を結び、軽く首を振った。動きにつられ、木板の上で銀の髪がかすかな音を立てる。
「頭目のウィーグラフ・フォルズという男は高潔な騎士であったと聞く。私の情報がたしかなら、おまえはそういう男を陰で支え、扱いづらい兵士を育て、この集団の構成に多大な貢献をし――その実績を認められて副官の地位を得たはずだ。北天騎士団に在籍していた頃とは打って変わった奉仕的な態度でな」
ギュスタヴのせりふに呆れ返るでもなく、小馬鹿にするでもなく、心よりの無念を感じると言った声質に、ギュスタヴは唇を歪め、頬にくっきりとした笑み皺を見せた。
「奴の理想主義には到底ついていけんよ」
一言で言い切ったせりふの中に、痩けた頬に刻まれた皺に、長い回想のすべては凝縮されていた。ギュスタヴはそれ以上を語る気はなく、エルムドア侯爵にもその意図は知れたのであろう。続く問いは、はっきりと方向の転換を感じさせた。
「――裏切りを」
ギュスタヴの関心を引くように一瞬、エルムドア侯爵はことばを区切る。
「裏切りを了解せぬ者もあっただろう……?」
「――ハ」
頬を引きつらせ、顔を歪ませて、ギュスタヴは乾いた声で短く笑った。その笑みは失笑にさえ似ていた。
「元騎士に殺されるか、騎士に殺されるかの違いだけさ――」
言い切ったことばの中に含まれた肯定は、断定的なものでないだけに重い。
ざり、と音を立てて木板の上の砂を靴底でこすり、ギュスタヴは体の向きを変えた。
そのまま、砂漠に面した窓に向かって足を踏み出す。一歩、二歩。
「助けは、来ないよ」
単語を区切って、ギュスタヴは言った。言わなければならなかったことを思い出した時のようにそっと。
瞼を下げてしばし動きを止めた後、ゆっくりと目を閉じてふたたび木板に顔を伏せたエルムドア侯爵の表情をギュスタヴは見なかった。そうする必要を感じなかったし、これ以上ことばを重ねる時間も残されてはいない。
乾いた砂の上を走る、白く焼けた石畳の上を駆けてくる蹄の音を、ギュスタヴは聞いていた。瞼を閉じて。
エルムドア侯爵の誘拐を実行した時、実行犯の一部が何者かに殺されたのをギュスタヴは知っている。ドーターから見て西北西、獣ヶ原の異名を持つだだっ広い草原でのことだ。
だから、この計画が見知らぬ何者かに筒抜けになっているのは、最初から分かりきったことだった。襲撃のタイミングが遅れたのはこちらの不手際によるものだから、何者かに誘拐直後の現場を抑えられたことは大きな不安要素のひとつである。
不安を招く要素は、他にも数え切れないほどあった。だがそれを、いちいち挙げていったところで何の利もない。ただギュスタヴは、目的のためにダイスダーグという男の姦計に乗ったまで――。
砂漠から吹き込む風を避け、窓の側の壁に向かってギュスタヴは腕を組み、伏せていた瞼をゆっくりと上げる。音に集中していた全神経は、次いで傷んだ扉を打ち破るであろう男の在り方に向かった。
とうとうやって来た、あの男が。政府に裏切られ、副官をはじめとする部下に裏切られ、民衆の支持だけを支えに理想に向かって邁進するあの男が――。
単数の蹄の音。それが示す彼の正体など、考える必要はすでにない。
きつく唇を結び、ゆっくりと首の向きを変えて、ギュスタヴは閉ざされた木の扉へと視線を向けた。
耳障りな音を立て、乾いた風と極端な気候に傷んだ木の扉が、ゆっくりと開いていく。
後方から差す砂漠の太陽に縁取られた男の姿は影になり、男の外見も表情も、こちら側からは判然とはしなかった。
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