背信者
page1
日に焼けた石の上に、砂が騒いでいる。
夜になれば氷点下まで下がる気温によって冷やされた石の上は視界の果てまで続き、遠くには蜃気楼が揺らいでいる。
石畳は視界の奥で砂に埋もれ、砂は地平を描いている。
「死の砂漠」の異名を持つゼクラス砂漠は、その気候の厳しさ故に無人と思われがちだが、かつて、この地には「砂漠の民」とだけ呼ばれる少数民族が暮らしていた。
この砂漠に適した独自の生活様式を要する部族であったが、国中で内乱が頻発した先の戦争の後半には、さすがに砂漠の外の出来事と無関係ではいられなかったらしい。あるいは横行する野盗の襲撃を受けた可能性もあるが、いずれにせよ、「砂漠の民」はいつしか砂漠から姿を消した。
その名残である集落跡は、地層の上昇によって埋もれている部分も多いが、一時の隠れ家とする分には広さなど必要ない。北天騎士団が本格的に討伐に乗り出してくるまでのわずかな時間さえ乗り切れば、後には快適な――少なくとも今よりははるかにまともな生活が待っているはずだ。男は、そう確信していた。
それが、束の間の夢にすぎないかもしれないことをも、頭のどこかに感じてはいる。うまく行けば一攫千金、だが、失敗すれば今度こそ、命はない。
乾いた喉を、男は無意識に抑えた。塩が高値で取引されて、口に入らないのは不幸中の幸いだ。塩分は喉を干上がらせる。味のない豆だけのスープで過ごす日々は苛立ちと惨めさを募らせたが、水の備蓄さえ少なくなってきている今、贅沢は禁物だ。
ざらつく掌に、男は己の感触を知る。汗の蒸発した皮膚、削げ落ちた肉と浮かび上がる骨。これが、一時はかの北天騎士団で小隊を任せられるまでになった騎士のなれの果てか。
つきかけたため息を、男は途中で飲み込んだ。己を嘆く暇があるなら、自己奮起のために新しい作戦のひとつも練るさ。
さささ……。
背後で、軽い物音がする。木板の上を軽やかに走り抜けていく小動物の足音だ。
気だるげに振り返った先には、動くものの姿はすでにない。
走り抜けていったものの正体を、男は知っていた。この砂漠にのみ生息する、砂ネズミであろう。外敵から身を守るため、体内に毒を持つ種なので、食用には適さない。
疲れきった頬に自嘲の色の濃い笑みを浮かべ、砂漠に向き直る直前で、男は視線を止めた。
砂ネズミの足音と思ったのは、もしや、錯覚か――。
固定した男の視界の中で、後ろ手に縛って床に転がしておいた人質が、薄く目を開き、必死になって身を起こそうと試みていた。
身じろぐたび、その長い銀の髪が彼の体の下でかすかな音を立てる。木板とその上に転がる無数の砂の粒、そして美しい銀糸の髪。それらがこすれ合って立てる音は、かすかに空気を震わせる。
ため息を飲み込むのと同じ要領で表情を消し、男はゆっくりと足を踏み出した。背後に砂漠の陽光を受け、伸びた男の影が人質の上に落ちる。
「お目覚めかい、侯爵どの――」
空気と同様、乾いた声で男は発した。
侯爵と呼ばれた人物のかすかな動きは、声をかけられた瞬間、つと動きを止める。ついで彼の頭がゆっくりと持ち上げられるまでの間に、意識を取り戻したばかりゆえの隙は跡形もなく消え、その消滅するさまを見た男は口もとにかすかな笑みを浮かべさえした。
身動きをとれぬよう縛り付けたまま、長い間食物を与えていないせいだろう。極度の疲労の影がその表情にはにじんでいたが、そこにはまだ凛とした気品が残されている。色素の薄い両眼に宿る光は弱々しいが、男の威圧には屈しない。さすがは、数え切れないほどの輝かしい武勲を有する名将だ。
彼の所轄地ランベリーは、イヴァリースの食料庫として知られている。先の大戦の最中、湖畔に建つ白亜の城壁を見た時、男は我が目を疑った。これはこの世の幻か、戦が見せた蜃気楼か――その稀有で美しい銀髪から、敵兵により「銀髪鬼」と呼ばれ恐れられた男の居城が領地がそこにあることを知ってなお、それはにわかには信じがたい美しさであった。
そんな居城を有し、イヴァリース全土へ食料を供給することさえ可能な豊かな土地を支配する男が、砂漠の廃屋でこんなふうに転がっている姿を、いったい誰が想像しただろう。
そう、指示された計画にのっとって彼を襲撃し誘拐を演出することを成功させた、そのおれ自身にさえ信じがたい光景だぞ、これは――。
警戒は緩めず、いつでも剣を引き抜ける態勢にあった男の頬に笑みが乗る。だが、人質である銀髪の男――エルムドア侯メスドラーマの唇のかすかな動きを見てとると、笑みは男の表情からするりと消えた。
かすれるような声が、乾いてひび割れたエルムドア侯の口から発せられる。
「おまえは、元、骸騎士団の――」
途切れ途切れに、エルムドア侯はそれだけを言った。
弱々しい声をとらえた男は、突き出した舌で乾いた唇をゆっくりと舐め、軽く唾を飲み込む。それから、唇の両端をつり上げて笑みを作ると、片足を引いて男はその場に膝をついた。
「……光栄だよ、覚えていていただけたとはね。銀の貴公子殿」
皮肉の色の強い口調にもひるまず、エルムドア侯はじっと男を見上げている。
敵兵が「銀髪鬼」と呼んで彼を恐れたのに対し、「銀の貴公子」という呼称は、イヴァリースに暮らす者が彼を英雄とたたえて捧げた異名である。
戦中にあって、兜をかぶりもせず、長く伸ばした銀の髪を風になびかせて戦うその姿の美しさを他に例えるすべを持つ者はいなかった。数々の妖刀を手に、精神力でその真の力を引き出して戦う戦法は、おいそれと誰にでもとれるものではない。この世ならぬ妖術を駆使する鬼、と敵兵が彼を呼んだのも、無理からぬことだ。
床に転がる男の、精緻な細工を思わせる銀色の睫毛がかすかに揺れた。
このエルムドア侯誘拐劇の立役者であるおれと、ここにいたって顔を合わせ、初めて己が身に降りかかった厄災を知ったか――。
噂に聞いていたとおりの、頭の良い男である。ただ美しいだけの武人ではないし、傀儡の領主でもない。天は二物を与えずというが、そんなものは嘘だ。この男には地位があり、金があり、頭脳があり、武力がある。この男を見栄えの良いただの人形と錯覚することがいかに危険かを、男はいやというほど知っている。
唇に張り付いた長い銀髪を舌先で押し出しながら、エルムドア侯は、薄く笑んだ。開かれた唇からこぼれる声には、皮肉の色がにじむ。
「失礼……ギュスタヴ・マリゲルフだったな、ようやく思い出したよ。元骸騎士団の、と言うのは失礼だったな。そう、転籍される前は――」
倒置されたことばを遮ったのは、鋭く空気を震わせる、金属質な音だった。
鼻先に突きつけられた切っ先から目を上げ、エルムドア侯はゆっくりと唇を笑みの形につり上げる。
そのまま、両者はほんの一瞬だけ動きを止めた。それはネジの切れたおもちゃが不意に動きを止めるに似て、緊迫した空気、絶え間なく吹く風でさえ、一時は動きを止めたように思われた。
ギュスタヴの表情に、何がしかの感情を見ることは難しい。
「自分の立場を承知しているのか」
とは、ギュスタヴは言わなかった。剣を突きつけたのは脅しではないし、力を誇示しているというわけでもない。どんなことばを発するより、どんな反応を考えるよりも早く、ただ体が動いていた。そこに嗜虐心はないし、また、策略があるわけでもない。彼の口を閉ざさせるには、これがもっとも有効な方法であると直感したまでのことだ。
かつては北天騎士団に所属し、一隊の指揮を任せられるまでに至ったものの、いつだったかの会戦の後に行われた軍法会議によって、平民の義勇兵で結成された騎士団、骸騎士団への転籍を余儀なくされた過去を、このエルムドアという男は知っている。自身を崇拝する一兵卒とは毛色の違う、扱いに多少の要領を要する相手であることも。
「ようやく思い出した」
と言ったそのことばが嘘であることなど、ギュスタヴは承知していた。おそらく彼は、こちらの反応を見ることによって、自分の置かれている状況をさらに詳しく追究したのであろう。
ふ、とかすかに息を吐き出すようにして短く笑み、ギュスタヴは人質に背を向ける。傾いた太陽の強い日差しを避け、壁際に立つと、ギュスタヴは腕を組んで砂漠に向き直った。
「侯爵を拉致するための環境は、我々の方で整えよう――」
豪勢な調度品で飾り立てられた執務室に背を向け、淡々と言った男の後ろ姿を、この時ギュスタヴは脳裏に反芻していた。
その男の名は、ダイスダーグ・ベオルブ――ガリオンヌ領主ラーグ公ベストラルダ率いる北天騎士団の軍師であり、同騎士団団長であるザルバッグ・ベオルブの実兄である。
北天騎士団は、規模と強さのいずれをとっても、イヴァリース一と名高い。その代々の団長を世襲するラーグ公家配下ベオルブ家は、武門の棟梁として知られており、今は亡き前国王デナムンダ四世をして「イヴァリースの守護神はガリオンヌにあり。ベオルブの名の下にこそ勝利がある」と絶賛されたのは、あまりにも有名な話である。
爵位を持たぬ、アトカーシャ王家にとっては陪臣にすぎぬベオルブ家が、イヴァリース全土の羨望の的である理由は、絶対的な軍力と清廉潔白な武人としての在りようにあることは、それらのことから十分にうかがい知ることができた。
だが、ギュスタヴは知っている。ベオルブ家現当主、ダイスダーグ・ベオルブという男が、そんなイヴァリースの民の羨望を裏切る種の執政者であることを。
Copyright(C)2004−2005 こんぐ