悪運勝負

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 雷に貫かれたように体を震わせ、自失と緊張から立ち直ったオーランが目にしたものは、高く晴れた空と渇いた石畳、その間にある見慣れた路地の一角だった。
「今のは……?」
 呆然とした表情で芸のないつぶやきをこぼす。
 豪雨の後姿を追い求める気持ちで己の体を見やったが、肌にも服にも、わずかばかりの湿り気さえ残されてはいなかった。
「幻か……」
 瞼を伏せ、オーランは肩を落とした。意識は、優位な追っ手であった己の立場からはすっかり遠ざかっている。いったいいつ、何故、どのようにして夢と現の境をすり抜けてしまったのかという疑問は、脱力の後にやってきた。
疑問が沸いたとたんに脳裏は理性を取り戻し、オーランの網膜は周囲の情景を的確に映し出す。追っ手の姿は、少し離れた路地と路地との境にあった。三人ともその場にへたり込み、後ろについた手を支えにじりじりと後退しているように見える。
「来るな、化け物……ッ!」
 オーランの視点が彼らの上に到達するのとほとんど同時に、追っ手のひとりが叫んだ。その目はオーランの立つ方向を向いてはいるが、映しているのはオーランではない。オーランの背後、やや左手――彼らのようすから察するに、その相手はどうやら、彼らに少しずつ近づいているようだ。
 目には見えない視力の糸をたどるようにして、オーランはゆっくりと背後を振り返った。人間らしい生気さえ感じさせぬ、おそらくは訓練によって身につけられた静かな気配は、そうする間にも確実に近づいてくる。
 体の向きを変えてしまうまでもなく、気配の主が誰であったのかがオーランには感知することができた。肩越しに向き直った恰好のオーランと目が合うと、バルマウフラは音もなく唇の端で笑む。
 君のしわざだったのか、とオーランは胸の内側につぶやいた。
 当然のことながら、返事はなかった。だが返事の代わりのようにバルマウフラは表情を消し、ふいっとオーランから目をそらす。
 オーランの目にとまどいが浮かぶ直前に、バルマウフラは何を考えているとも知れぬ無表情のままオーランの前を通り過ぎた。その後姿には、声をかける隙さえない。
 喉の奥で軽い咳払いをして、オーランは唾を飲み込んだ。口をつぐむしかない時は、おとなしく黙っておく方がいい。愚にもつかぬことを並べ立てて意思あるものの邪魔をすべきではない。
 バルマウフラが向かう先の三人の男たちは、どうやらいまだ正気を取り戻せずにいるようだった。オーランに背を向けて彼らに歩み寄りながら、バルマウフラは簡単な印を結んでいる。彼らの目を覚まさせるつもりなのだろう。
 豪雨の中に走ったものとは比べようもない小さな稲光が、男たちの頭上に降った。
「ようやくお目覚め?」
 バルマウフラの声音は、どこか楽しげなものにさえ聞こえる。だが、揶揄されていることに気づくだけの余裕は、男たちにあるようには見えなかった。
「貴様は……!」
 三人のうち、最初に口を開いたのは、オーランを追う際に先頭に立っていた男で、おそらく彼らの中では最上位なのだろう。卑屈としか呼べない残るふたりの表情と違って、彼だけは唯一、狼狽しながらも毅然とした態度を保とうと努めているように見えた。
「お生憎さま、わたしは悪魔に見守られているの。そう簡単には死なせてもらえないようね……」
 バルマウフラの口調は、とても静かだ。同様に動きも静かで、すうっと上げられた右腕の下に男たちがありもしない幻を見たとしても、彼らの弱気を笑うことなどオーランにはできなかった。動なるものには動なるものの、静なるものには静なるものの支配域がある。
「く……来るなッ……!」
 はっきりと聞き取ることのできることばとしては最後にそう言ったきり、男たちはめいめいにことばにならない悲鳴を上げてその場から逃げ出した。バルマウフラは後を追わない。上げた腕をゆっくりと下ろして、逃げ出した男たちの姿を表情もなく見送っている。
 バルマウフラが背後のオーランに向き直るまでには間があったが、オーランはその間、かけるべきことばをとうとう見つけることができなかった。
「神殿騎士の生き残りね。あれほどの状態に追い込まれたんじゃ、誰ひとり正確な情報を持っている人間はいないのかもしれないけれど……」
 ややあって、くるりと向き直ってから、バルマウフラは淡々と言う。
「あなたを逆恨みする人間はさぞ多いことでしょうね。お気をつけあそばせ、参謀閣下」
 揶揄と言うには抑揚のない口調で、厭味と言うには行動に反したバルマウフラのせりふに、オーランは体中の力が抜ける気がした。それでなくとも前屈みになっていた姿勢から、重力に逆らうのをやめてオーランはふっと膝をついてしまう。
 これは勝ち目がなかったようだ、と思ったら、気持ちは苦笑になって表面に現れた。
「……ありがとう。助かったよ」
「よく言うわ、白々しい」
 額に手をやり、苦笑いしたオーランが顔を上げるより早く、バルマウフラはすっぱりと切り返してきた。今度は足音を立ててつかつかと歩み寄り、オーランの側まで来ると、バルマウフラは腰に両手を当ててオーランを見下ろす。
 困ったな、彼女に切り返されないようにするためには、何をどう口にするべきか――。
 逡巡するオーランに向かって、バルマウフラは声もなく笑んだ。
「おせっかいのお礼よ。……いい夢が見られたでしょう?」
「は……」
 なんだ。やはりそうか。
 断りもせずバルマウフラの腕に手をかけ、ひょいと立ち上がって、オーランは喉を震わせて笑った。
 今はイヴァリースの英雄王として即位したディリータの手で対外的には粛清され、関係者の前に姿を現すことを意図的に避けていたバルマウフラが太陽のもとを歩けるようになるいい機会と考えたことがばれていたばかりではない。助けなどそも必要ないと彼女はとうに知っていて、その上でこちらの考えに乗ってくれたというわけだ。
 おまけに、彼女にはたぶん分かっているのだろう。おれの見た幻影が何であったのかを察するには、肩越しに振り返って目が合った、あの一瞬で彼女には十分だったに違いない。
 だが、降参を声に出して言う気はなかった。それさえもきっと、彼女は承知しているだろうから。
 笑いが収まると瞼を伏せ、つい先ほどバルマウフラがそうしたように、オーランは声もなく笑った。幻影を振り払うように軽く頭を降ると、オーランは男たちが逃げていった路地の奥をぼんやりと見やる。
 そのようすを、バルマウフラは無言で見つめていた。双眼草は望みもしない悪夢を導くだけの薬ではない。
「まったく、悪運が強いのはどちらかしらね……」
 つぶやきは、無意識のうちに唇からこぼれた。
「何だって?」
 はっきりとは聞こえなかったのだろう、顔をこちらに向け、オーランが不思議そうな顔をしている。
「何でもないわよ」
 さらりと返すと、バルマウフラは身をひるがえしてさっさと歩き出した。薬草を整理している途中で住処を後にしてきたから、こんなところでいつまでも呆けているわけにはいかない。
「おい、待てよ」
 背後で、たっと石畳を蹴る音がする。
 死に損なったわたしと、連れていってもらえなかった男、か。背後にあった事情も立場も違えど、ここにこうしてともにあるのは、共通する何かが互いの中にあるからなのだろう。
「素っ気ないな。おれが感傷に浸っている間くらい、つきあってくれてもいいじゃないか」
「なんでよ」
 バルマウフラは小うるさげに眉をひそめたが、オーランは平然としている。
 放っておこう、と表情を改めると、それを察したのかどうか、ひょいと肩に手がかかった。
「馴れ馴れしいわよッ」
 棘のある口調で言ってやったが、動じる相手ではない。
 まあいいか、めんどうだから放っておこう……。
 つい先ほど胸の中につぶやいたばかりのせりふをまた繰り返すと、ひとつため息をついてバルマウフラは男の手に頬をすり寄せた。双眼草の効力が切れた今、感じるもののすべてはまぎれもない現実だ。
 太陽は高く、いまや道はどこまでも太陽のもとに開けていた。

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