悪運勝負
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異変に最初に気づいたのは、追っていた者ではなく、追っ手を目的地へと引き寄せている獲物役のオーランだった。ポツ、と顔に雫が落ちて、反射的に上げた手で頬をぬぐう。
雫の出所を求めてオーランが空を見上げたとたんに、天の鍋を引っくり返したような勢いで大粒の雨が落ちてきた。
――馬鹿な、今は乾期だぞ!
オーランが内心に叫んだのは、何のひねりもない驚きである。
西の空に光が走り、次いで雷鳴が大地を揺らした。時期さえ無視した突然の雷雨に驚くあまり、足を休めてしまったオーランはこの雷鳴で己の立場を思い出し、濡れた石畳を蹴った。雨のおかげで追っ手は自分を見失ってくれたようだ。
オーランは気を取り直し、念のために目的地までの最短ルートは使わないことにした。ただこの場所を逃れるための逃亡ならともかく、隠れ家のひとつに向かって逃亡しているとなれば、その程度には気を配っても用心が過ぎるということはない。
こうなると、予想外の雷雨はまったく救いの雨だ。できすぎた舞台同然、幕引きがあまりにも鮮やかすぎて呆気にとられたあの泥沼の内戦の最中、こういう雨が降ってくれれば飢えずにすんだ者もいたはずなのに、今はこのおれのためだけの雨か。
否、乾期の突然の雨は農作物の出来を狂わせる。事実ガリオンヌ領やフォボハム領を悩ませた水害は、こういう気まぐれな雨の集大成だ。人は身勝手なもので、自然があらゆる種の気まぐれを起こすたび、飽きもせず腹を立てる。それより他に労力を使うべきところがあるにもかかわらず、だ。
陰鬱な気持ちでオーランは息を吸ったが、ため息に変えることはしなかった。この程度でため息をついていては誰にも申し訳が立たぬ。今はただ、生き延びて天命を果たさねば……。
走馬灯のように風景が脳裏を駆け去るのは、それほど縁遠いことではなかった。オーランの主だった仕事の中には諜報活動が含まれていたし、逃げる側になることは少なくはない。ただひとりの味方を得ることもできず、己の力だけを頼りに身を守らねばならぬこともたびたびあった。状況判断力というものは、持ち主の生きる環境によって成長を遂げていくもののひとつだ。
隠れ家が近づいてきた。そろそろ反撃に出る必要があるな。
視界の限られた雷雨の中、オーランの五感は背後に迫る追っ手の気配を感じていた。オーランが気づかぬうちにいくつかの組に分かれたのだろう、怒声はなく、足音さえも静かなものだ。薄く笑んだ後、意を決すると、オーランは雨の中に立ち止まった。背後の気配に神経を尖らせ、相手の戦法がどういったものであるかに考えを巡らせ、唇を舐める。
獲物を視界に捕らえたのだろう、ただひとりの追っ手は歩調を緩めたようだった。雨足は先ほどより、少し緩んでいる。追っ手と己との距離が詰まったのが分かる。
ややあって、大きく息を吸うと、オーランはゆっくりと身をひるがえして追っ手と対峙した。追っ手は思いの他、すぐそばまで近づいていた。その姿を視界にとらえて初めて、相手が巧妙に気配を隠していたことに気づいてオーランは愕然とした。これは一筋縄ではいかぬ相手かもしれない。
ずい、と相手が歩を踏み出すのが見えた。雨に濡れてずっしりと重たげな褐色の外套には使い古された感がある。外套と雨に隠れた武器は巨大な剣か。何の要求を突きつけるでもない無言の追っ手ほど不気味なものはない。命乞いなどするつもりはないが、それにしても、追われていながら何故気づかなかったのか――この相手の、ただならぬ覇気に。
正体の知れない追っ手の手が外套にかかり、覆われた顔を雨の幕の向こうに出すのと、気圧されたオーランがごくりと喉を鳴らすのはほぼ同時だった。雨はあいかわらず視界を鈍らせていたが、どうした偶然か、空を駆ける雷光は雨の幕を割って厳しく引き締まった精悍な武将の顔をくっきりと浮かび上がらせた。
「義父上……!」
オーランは息を呑んで大声を上げ、硬直した。額が見える高さまで外套を持ち上げた相手はそれ以上動かず、声を発しもしない。オーランを凝視する目の表情は深く、読めない。
狼狽したオーランは、自分でも何を言っていいのか分からないまま口を開きかけた。
とっさにことばが出てこなかったのは、言うべきことが何も用意されていなかったからではないし、再会を考えたことがなかったからでもない。伝えるべきことが多すぎたのだ。
だが、何よりも先に言っておかねばならぬこともある。予期せぬ邪魔が入る前に、これだけは――。
そう気を取り直して唇を舐めた瞬間、轟音が聴覚を貫いた。
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